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2011/08/13

石巻から志津川へ

8/12
 3週間雄勝中(石巻市)のサマースクールボランティアをしていた山本ケイイチさんが、石巻を案内してくれた。8:00に石巻駅に現れた山本さんはBMWのバイクに乗ってやってきた。そのバイクで、石巻市内、雄勝、そして大川小、雄勝中が間借りしている飯野川高校(分校)の仮設住宅を回ってくれた。雄勝は小学校で若干名の犠牲が出たものの、中学校では卒業式で生徒は下校後だったにもかかわらず、奇跡的に犠牲者が出なかったらしい。それでも母親を亡くした子どもは何人かいるという。その現場である雄勝の病院に連れていってくれた。寝たきりの老人などもいたその病院では、職員が病人を上階に上げる努力をしている間に津波が押し寄せ、数十人規模で死者が出た。献花台が設けられていた。
 雄勝の中心部には鉄筋3階建ての屋上に南三陸交通のバスが乗っていた。観光名所として残すかという話もあるらしい。大槌のはまゆり(?)は有名になったが、あれは土台が木造で、とてもそのまま保存できる状態ではないが、ここは鉄筋なので、残すのも可能かもしれない。南三陸交通は、バス30台以上を失ったが、社長は3月中には20台近いバスを買って、仕事を再開したという。
 雄勝中は、校長さんができた人らしく、震災後、様々な支援を得、またそれをうまく受け入れるので、ますます支援が得られるという恵まれた状況にあったらしい。今では支援物資の備蓄で、今度震災が来てもしばらくは生徒を困らせないくらいの備蓄があるという。管理職の真価というのは、こういう時に問われるのだろう。
 雄勝から峠を越えて、大川に来た。大川小は北上川の最下流にある橋のたもとにある。橋自体は落橋していないが、漂流物でトラスが曲がってしまい、現在は通行止めだった。学校は北上川の堤防と、急な丘に挟まれて建っている。マニュアルに避難すべき具体的な場所が書いていなかったことが非難されていた。具体的に書かなければ、いざという時役立たないものだ。僕自身、その新聞記事を見た時にはやるせない気持ちになったが、現場を見ると、背後の山は確かに流れ着いて登って九死に一生を得た児童がいるとしても、とてもマニュアルに書けるような代物ではない。わずかに土砂崩れ防止の擁壁の端から、その背後にある草地の法面に登れるかどうか。マニュアルにそのことを書こうとすれば、分別のある人なら一笑に付すだろう。それ以外に多くの児童を連れて30分以内に安全に避難すべき場所を見つけることができなかった。それをマニュアルの不備というならば、むしろこの場所に学校を建てたこと自体が非難されるべきだろう。
 同時に、「マニュアルにはないが(たとえば)あの擁壁の端から上がれば、子どもでも登れる可能性のある法面に出ることができる」と考え、普段からそれを試してみた教員がいなかった(だろう)ことも残念に思う。今回の震災が日本が変わる契機であると捉えるひとが居る。だとしたら、そういう臨機応変さを持った人材をより多く育てることも、変わるべき日本の姿の一つのように思う。「関係者(含遺族)以外立ち入り禁止」とあった。わざわざ「含遺族」とするのには違和感を感じた(文意が曖昧な表現を書き直しました8/13)。
 山本さんは、今こちらに住民票を移し、漁業の再生に取り組んでいるという。「支援というより新しいビジネスですね」という。ただ復活したり協同組合を合併するだけでなく、観光漁業から教育的漁業、そんな新しい漁業の姿を地元の人と構想しているらしい。まっさらになってしまった雄勝も、海はきれいだ。そんな自然を利用して、山本さんの本職であるトレーニングセンターができたら・・・、なんてことを話てくれた。
 山本さんと別れた後、45号線を北上して、気仙沼に向かった。スタートが13時だったので、気仙沼までは厳しいかもしれない。志津川ではホテルが再開されているようだという情報もえたので、最悪志津川かというくらいの気持ちでスタート。北上川を渡ったところで、45号線は法面崩落のため海側の398号線へいくことを余儀なくされた。海岸の平地にある学校は、ことごとく崩壊し、校庭はがれきの山となっていた。妙にきれいな校舎の外壁とのギャップが痛々しい。
 志津川の中心市街地は、報道で見たとおりの状況であった。5ヶ月もたったのに中心部で再開しているのはガソリンスタンドと、プレハブのお総菜屋のみ。いくつかの大きな鉄筋の建物が残っているだけで、市街地はようやく更地になったばかりといった感じだ。完全に冠水した志津川病院の入り口にも献花台があった。おもちゃやぬいぐるみの供え物が涙を誘う。
 とても、食事にありつけると思えず、思わずそのお総菜屋で鶏の唐揚げとコロッケを買った。お茶のボトルも買ったら店先の大きなポリバケツの中から出してくれた。意外なほど冷たかった。町の機能もほとんど取り戻されていないのではないだろうか。留まるところがあると思えず、気仙沼方面に向かった。今日はたぶん気仙沼線のどこかの駅で野宿だろう。
 その後、45号線はやや内陸の丘陵を縫って走る。そこらにあるコンビニはほぼ無事で、ひっきりなしに車で客がやってくる。志津川も津波冠水区域の町外れに仮設のセブンイレブンができていて、大繁盛だった。更地になって人気も少ない町の郊外を車だけがひっきりなしに走っているのが、不思議に思える。たまった疲れとのどの乾きをコンビニでいやしながら気仙沼に向かう。大谷海岸の道の駅を今夜の宿とした。

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宿にありついた石巻も海岸にいくと、ねこそぎ倒された鉄筋の建物が転がっている

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雄勝での光景。バスが屋上へ

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大川小学校。裏山は記事から予想したよりも遙かに急峻だった。

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ほとんど壊滅的な打撃を受けた志津川病院。最後まで患者を少しでも上階にという努力が大きく報道されたが、実はどこの病院でも当たり前のように見られた光景だったのかもしれない。

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志津川中心部で一軒だけやっていた総菜屋。店名「一歩」は、震災後着けられた名前だろうか?

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