気仙沼そして陸前高田
慣れない野宿のせいばかりではないだろうが、夜中に何度も目が覚めて、4時には軽食をとって早々にスタートした。自転車で走ると肌寒いくらいだ。気持ちよくこげる。気仙沼が近づいたので、バイパスから旧国道に入る。ちょうど朝日が昇ってくる。重機の間に昇る朝日を撮ろうとして不用意に段差に乗り上げたら、こけて右膝を中打した。痛みはないが、やや不安。
気仙沼は海岸から少し離れた旧国道を走って、そのまま坂を登って旧市街に入ったので、浸水はしているようだが、ひどい被害を受けているようには見えなかった。駅に寄って鉄道の運行状況を確認。ここから内陸の一関には行くことができる。約80km先の釜石からも花巻に行くことができる。その間の鉄道を含めた一切の公共交通はない。進むかここでやめるか、一瞬考えて、この付近でも被害の大きかった陸前高田まではいくことにした。
旧国道は、市街地を抜けた後、気仙沼の東の入り江の中を通るが、この区間は津波の被害をもろに受けていた。構造が残っている建物があるが、とても使える状態ではなく、その隣に遠洋漁船が漂着していたりする。海抜は南部とあまり変わらないのに、湾に対する向きが被害の大きさを決めているのかもしれない。
昨日の午後くらいから、荷物の重さが気になってきた。背負っているので、肩やサドルに当たる尻にもろに負担が来る。郊外にあったセブンイレブンから、いらないものを送り返してしまおう。今日はいずれにしろ宿のあるところまでいくのだから。セブンに乗り付けると、壁際にツーリング仕様のMTBが立てかけてあった。3日目にして初めての同類に出会った。北(自分が向かっている方向)から来た彼女と、行く先の情報を交換して、もうコッヘルを送り返してしまったので食べることができなくなった中華三昧を渡して、別れた。陸前高田の中心市街地には何もなく、途中にコンビニもないという。その言葉を聞いて、再度水分と食料を仕入れなおして、陸前高田に向かう。
途中いくつかの小さなアップダウンを繰り返した。浜はことごとく壊滅しているが、国道が通る中腹のほとんどは被害を受けていない。陸前高田の市街も同様で、町に入る最後の坂を下っていくと、構造だけを残してぼろぼろになった気仙中の姿が目に入る。その背後にある違いは市役所も含めて壊滅的で、震災から5ヶ月たった今も、市街地は全く機能していないようだった。
暑くなり始めた終戦後のような町を自転車で移動しているうちに、眠気なのか、あまりの悲惨さ故なのか、それとも若干脱水気味なのか、先に進む気力が萎えてきた。日陰で一休みして情報収集。高田-大船渡-釜石間の臨時バスは運行されているようだが、携帯では正確な運行時刻が分からない上に、輪行を許してくれるかも分からない。ここは人に頼るような場所じゃないと、自分に言い聞かせて、気仙沼に帰ることにした。
せっかく戻ってきたので、さきほどはスルーした気仙沼の沿岸部を見て回ることにした。フェリーターミナルは復興していたようだが、船は江田島からの応援船だった。この船がいつ来たのかは知らないが、それまでは、気仙沼沖にある大島は、全くの孤島と化していたわけだ。
湾の入り口により近い水産加工関係の工場があったと思われる場所は、壊滅的で、まだ引かない潮だまりにかもめが戯れていた。それでも中には営業中の店舗もあった。被災に優劣があるはずもないが、小高い丘の上には商店や市役所などの都市機能は生き残っている。それが根こそぎなくなってしまった志津川や陸前高田のような町を見ると、「がんばろう」なんて、安易に他者が言うべきことではないと感じた。
気仙沼の浸水区域で。こうやって商売を再開した店もあるのだろう
気仙沼の東の入り江にある食品加工工場地区にて
陸前高田。有名になった松の木
陸前高田の市街は現在でもこの状況
高田高校。体育館が流され、校舎に激突したのだろう
南気仙沼小学校の校舎にて。なぜか張ってある安全の文字がシニカル。ちょうど全の字のなかほどまで浸水があったことが分かる。
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