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2011/08/18

三陸海岸大津波

作家の吉村昭氏が30年以上も前に書いた「海の壁」という本が、2004年に文庫化されて、表題のタイトルの本となった。明治、昭和、チリ津波についての三陸の被害の状況やそれに対して人々がどう行動したかを書いたもので、当然のように、今年になって刷りを重ねている。

 地震もないのに不意打ちにように襲われたチリ津波にしても、記録によれば、過去明らかに5例は南米の地震による津波に三陸は襲われている。そのうち一例は大正年間に入ってからのものである。

 明治29年も、昭和8年の、高台への移転が見られたが、それも時間とともに海岸近くに人々が戻るという現象が見られた。

 津波への対策の模範的な例として田老町が指摘されている。明治、昭和と最大の被害を受け、現在では避難訓練、10mの巨大堤防と被害予防に積極的な姿勢をとった田老でも、20名の死者。終章に「津波は、時世が変わってもなくならない、・・・しかし、今の人たちはいろいろな方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにないと思う」という地元の人の言葉が引用されているのが切なく感じられる。

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2011/08/13

気仙沼そして陸前高田

 慣れない野宿のせいばかりではないだろうが、夜中に何度も目が覚めて、4時には軽食をとって早々にスタートした。自転車で走ると肌寒いくらいだ。気持ちよくこげる。気仙沼が近づいたので、バイパスから旧国道に入る。ちょうど朝日が昇ってくる。重機の間に昇る朝日を撮ろうとして不用意に段差に乗り上げたら、こけて右膝を中打した。痛みはないが、やや不安。
 気仙沼は海岸から少し離れた旧国道を走って、そのまま坂を登って旧市街に入ったので、浸水はしているようだが、ひどい被害を受けているようには見えなかった。駅に寄って鉄道の運行状況を確認。ここから内陸の一関には行くことができる。約80km先の釜石からも花巻に行くことができる。その間の鉄道を含めた一切の公共交通はない。進むかここでやめるか、一瞬考えて、この付近でも被害の大きかった陸前高田まではいくことにした。
 旧国道は、市街地を抜けた後、気仙沼の東の入り江の中を通るが、この区間は津波の被害をもろに受けていた。構造が残っている建物があるが、とても使える状態ではなく、その隣に遠洋漁船が漂着していたりする。海抜は南部とあまり変わらないのに、湾に対する向きが被害の大きさを決めているのかもしれない。
 昨日の午後くらいから、荷物の重さが気になってきた。背負っているので、肩やサドルに当たる尻にもろに負担が来る。郊外にあったセブンイレブンから、いらないものを送り返してしまおう。今日はいずれにしろ宿のあるところまでいくのだから。セブンに乗り付けると、壁際にツーリング仕様のMTBが立てかけてあった。3日目にして初めての同類に出会った。北(自分が向かっている方向)から来た彼女と、行く先の情報を交換して、もうコッヘルを送り返してしまったので食べることができなくなった中華三昧を渡して、別れた。陸前高田の中心市街地には何もなく、途中にコンビニもないという。その言葉を聞いて、再度水分と食料を仕入れなおして、陸前高田に向かう。
 途中いくつかの小さなアップダウンを繰り返した。浜はことごとく壊滅しているが、国道が通る中腹のほとんどは被害を受けていない。陸前高田の市街も同様で、町に入る最後の坂を下っていくと、構造だけを残してぼろぼろになった気仙中の姿が目に入る。その背後にある違いは市役所も含めて壊滅的で、震災から5ヶ月たった今も、市街地は全く機能していないようだった。
 暑くなり始めた終戦後のような町を自転車で移動しているうちに、眠気なのか、あまりの悲惨さ故なのか、それとも若干脱水気味なのか、先に進む気力が萎えてきた。日陰で一休みして情報収集。高田-大船渡-釜石間の臨時バスは運行されているようだが、携帯では正確な運行時刻が分からない上に、輪行を許してくれるかも分からない。ここは人に頼るような場所じゃないと、自分に言い聞かせて、気仙沼に帰ることにした。
 せっかく戻ってきたので、さきほどはスルーした気仙沼の沿岸部を見て回ることにした。フェリーターミナルは復興していたようだが、船は江田島からの応援船だった。この船がいつ来たのかは知らないが、それまでは、気仙沼沖にある大島は、全くの孤島と化していたわけだ。
 湾の入り口により近い水産加工関係の工場があったと思われる場所は、壊滅的で、まだ引かない潮だまりにかもめが戯れていた。それでも中には営業中の店舗もあった。被災に優劣があるはずもないが、小高い丘の上には商店や市役所などの都市機能は生き残っている。それが根こそぎなくなってしまった志津川や陸前高田のような町を見ると、「がんばろう」なんて、安易に他者が言うべきことではないと感じた。

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気仙沼の浸水区域で。こうやって商売を再開した店もあるのだろう

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気仙沼の東の入り江にある食品加工工場地区にて

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陸前高田。有名になった松の木

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陸前高田の市街は現在でもこの状況

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高田高校。体育館が流され、校舎に激突したのだろう

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南気仙沼小学校の校舎にて。なぜか張ってある安全の文字がシニカル。ちょうど全の字のなかほどまで浸水があったことが分かる。

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石巻から志津川へ

8/12
 3週間雄勝中(石巻市)のサマースクールボランティアをしていた山本ケイイチさんが、石巻を案内してくれた。8:00に石巻駅に現れた山本さんはBMWのバイクに乗ってやってきた。そのバイクで、石巻市内、雄勝、そして大川小、雄勝中が間借りしている飯野川高校(分校)の仮設住宅を回ってくれた。雄勝は小学校で若干名の犠牲が出たものの、中学校では卒業式で生徒は下校後だったにもかかわらず、奇跡的に犠牲者が出なかったらしい。それでも母親を亡くした子どもは何人かいるという。その現場である雄勝の病院に連れていってくれた。寝たきりの老人などもいたその病院では、職員が病人を上階に上げる努力をしている間に津波が押し寄せ、数十人規模で死者が出た。献花台が設けられていた。
 雄勝の中心部には鉄筋3階建ての屋上に南三陸交通のバスが乗っていた。観光名所として残すかという話もあるらしい。大槌のはまゆり(?)は有名になったが、あれは土台が木造で、とてもそのまま保存できる状態ではないが、ここは鉄筋なので、残すのも可能かもしれない。南三陸交通は、バス30台以上を失ったが、社長は3月中には20台近いバスを買って、仕事を再開したという。
 雄勝中は、校長さんができた人らしく、震災後、様々な支援を得、またそれをうまく受け入れるので、ますます支援が得られるという恵まれた状況にあったらしい。今では支援物資の備蓄で、今度震災が来てもしばらくは生徒を困らせないくらいの備蓄があるという。管理職の真価というのは、こういう時に問われるのだろう。
 雄勝から峠を越えて、大川に来た。大川小は北上川の最下流にある橋のたもとにある。橋自体は落橋していないが、漂流物でトラスが曲がってしまい、現在は通行止めだった。学校は北上川の堤防と、急な丘に挟まれて建っている。マニュアルに避難すべき具体的な場所が書いていなかったことが非難されていた。具体的に書かなければ、いざという時役立たないものだ。僕自身、その新聞記事を見た時にはやるせない気持ちになったが、現場を見ると、背後の山は確かに流れ着いて登って九死に一生を得た児童がいるとしても、とてもマニュアルに書けるような代物ではない。わずかに土砂崩れ防止の擁壁の端から、その背後にある草地の法面に登れるかどうか。マニュアルにそのことを書こうとすれば、分別のある人なら一笑に付すだろう。それ以外に多くの児童を連れて30分以内に安全に避難すべき場所を見つけることができなかった。それをマニュアルの不備というならば、むしろこの場所に学校を建てたこと自体が非難されるべきだろう。
 同時に、「マニュアルにはないが(たとえば)あの擁壁の端から上がれば、子どもでも登れる可能性のある法面に出ることができる」と考え、普段からそれを試してみた教員がいなかった(だろう)ことも残念に思う。今回の震災が日本が変わる契機であると捉えるひとが居る。だとしたら、そういう臨機応変さを持った人材をより多く育てることも、変わるべき日本の姿の一つのように思う。「関係者(含遺族)以外立ち入り禁止」とあった。わざわざ「含遺族」とするのには違和感を感じた(文意が曖昧な表現を書き直しました8/13)。
 山本さんは、今こちらに住民票を移し、漁業の再生に取り組んでいるという。「支援というより新しいビジネスですね」という。ただ復活したり協同組合を合併するだけでなく、観光漁業から教育的漁業、そんな新しい漁業の姿を地元の人と構想しているらしい。まっさらになってしまった雄勝も、海はきれいだ。そんな自然を利用して、山本さんの本職であるトレーニングセンターができたら・・・、なんてことを話てくれた。
 山本さんと別れた後、45号線を北上して、気仙沼に向かった。スタートが13時だったので、気仙沼までは厳しいかもしれない。志津川ではホテルが再開されているようだという情報もえたので、最悪志津川かというくらいの気持ちでスタート。北上川を渡ったところで、45号線は法面崩落のため海側の398号線へいくことを余儀なくされた。海岸の平地にある学校は、ことごとく崩壊し、校庭はがれきの山となっていた。妙にきれいな校舎の外壁とのギャップが痛々しい。
 志津川の中心市街地は、報道で見たとおりの状況であった。5ヶ月もたったのに中心部で再開しているのはガソリンスタンドと、プレハブのお総菜屋のみ。いくつかの大きな鉄筋の建物が残っているだけで、市街地はようやく更地になったばかりといった感じだ。完全に冠水した志津川病院の入り口にも献花台があった。おもちゃやぬいぐるみの供え物が涙を誘う。
 とても、食事にありつけると思えず、思わずそのお総菜屋で鶏の唐揚げとコロッケを買った。お茶のボトルも買ったら店先の大きなポリバケツの中から出してくれた。意外なほど冷たかった。町の機能もほとんど取り戻されていないのではないだろうか。留まるところがあると思えず、気仙沼方面に向かった。今日はたぶん気仙沼線のどこかの駅で野宿だろう。
 その後、45号線はやや内陸の丘陵を縫って走る。そこらにあるコンビニはほぼ無事で、ひっきりなしに車で客がやってくる。志津川も津波冠水区域の町外れに仮設のセブンイレブンができていて、大繁盛だった。更地になって人気も少ない町の郊外を車だけがひっきりなしに走っているのが、不思議に思える。たまった疲れとのどの乾きをコンビニでいやしながら気仙沼に向かう。大谷海岸の道の駅を今夜の宿とした。

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宿にありついた石巻も海岸にいくと、ねこそぎ倒された鉄筋の建物が転がっている

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雄勝での光景。バスが屋上へ

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大川小学校。裏山は記事から予想したよりも遙かに急峻だった。

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ほとんど壊滅的な打撃を受けた志津川病院。最後まで患者を少しでも上階にという努力が大きく報道されたが、実はどこの病院でも当たり前のように見られた光景だったのかもしれない。

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志津川中心部で一軒だけやっていた総菜屋。店名「一歩」は、震災後着けられた名前だろうか?

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2011/08/11

奥の細道

 この目で見ておきたい。ただそれだけで東北にやってきた。特に被災した教育施設。5ヶ月も経ってしまった今、見て何が分かる訳でもないかもしれないが、これからの防災教育を考える時、被災した学校を見ておくことはmustのように思える。何が得られるという確信はないけれど・・・。
 初日は、仙台から海岸方面を目指し、まずは避難指定地になっていた東六郷小学校を見た。片付けられているとは言え、1階は間違いなく津波の襲来を受けている。5ヶ月たっても、施設再開の見込みさえ見えない。
 その後、塩竃、松島を通過して野蒜小学校に向かった。塩竃周辺は大きな打撃を受けているようには見えないが、海岸沿いに、再開の見込みが全く見えないコンビニが多数見られた。放置されたものと復興しつつあるものの落差が大きい。
 松島は確か震災の比較的直後から、「あまり被災していないので、ぜひ観光に来てください」的キャンペーンをしていた。今日はたくさんの観光客が歩いていた。駅前も中心のお土産屋も海岸から数十mでほぼ海抜ゼロメートルに近い。被害はゼロではないようだが、相当内陸まで被害を受けた若林区の状況を見てくると、見かけは日常に戻っている松島が不思議に思える。
 東松島市の野蒜小学校は避難指定地になっているが、報道によると数十人がなくなっている。確かにここも海抜はほぼゼロメートルだ。校舎はしっかりしているが、一階がひどく破損して、ここも校舎の再利用の見通しはついていないようだ。校庭には仮設住宅の建設用土台とおぼしきものが立ち並んでいる。背後には浸水しなかった丘陵があり、そこにつながる道もある。どうしてこの避難地で数十人もなくなってしまったのだろう。
 そこから石巻に向かう。途中、仙石線上の列車が放置されている。汚れても破損もしていないので、ここまでは津波がこなかったのだろう。仙石線は、駅や線路も破損して、復旧の見通しは全くたっていないようだった。たった半年なのに、随分前に廃線になってしまったような姿が哀れだった。
 東松島市の浜市小学校は避難指定地になっていたが、津波が2階にも押し寄せた様子で、がれきは片付いていたが、校舎内部は全く手つかずだった。当初2階に避難していたが、先生の機転で3階の音楽室や屋上へ避難して、学校のいた児童たちは何を逃れたようだ。ばあちゃんのところに夏休みで来たという仙台の兄弟が校庭で遊んでいた。太白区だが、津波がすぐそばまで来たということだった。
 石巻も中心市街地は被害を受けたようだが、駅周辺は破損して占められている商店がいくつか見られたが、それ以上津波被害を感じさせるものは何もなかった。ネットで見たホテルのたぐいは全て満室。駅前の交番に言ったら、旅館・ホテルのリストが用意されていたが、その多くはすでにネットで×だったところばかり。いくつかの旅館にあたって、ようやく宿が取れた。若い警察官が親身になって手伝ってくれた。

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若林区の東六郷小学校。「指定避難所」の倒れた看板が痛々しい

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おそらく浸水は受けただろう松島海岸は、しかしそれを感じさせない程度には復興している

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復興の兆しさえ見えない仙石線の東名駅。線路も撤去されている。

石原都知事なら「本州最大の鉄道事業者としての使命と責任を忘れている」というだろうか?

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数十人の犠牲者が出た(児童かどうかは不明)と報道されている野蒜小学校。何事もなかったかのような校歌の石碑と何かが突き上げたような天井の穴が対照的。

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放置された仙石線の車両

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東松島市浜市小学校。ここも避難指定所だが、最終的には2階にも浸水。左の方にかすかに見える3階部分の音楽室に避難して、犠牲を出さずに済んだ。

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素敵な山里

 この11月に静岡市内初のトレランが開催される玉川(「たまかわ」である。僕たちも間違えていた)は、旧安倍郡六ケ村の一つで、静岡市に合併されたのは昭和40年代と、そう古いことではない。会場となる玉川小学校は静岡市内で二番目にできたという歴史を誇る学校であり、今回の実行委員長である連合町内会長の狩野さんをはじめ、三役の方には並々ならぬ思い入れがある故郷のようだ。
 今日も、運営準備の会合の後、このトレラン(とその後のトレッキング利用)のために新しく作ったトレイルやそこに渡された丸木橋、そして立派な展望台を見せてくれた。展望台は玉川集落を望む標高約500mの場所に作られており、11月のレース時天気がよければ、遠く雪をかぶった南アルプスも見えるはず。この景観を拝むだけでも十分に走る価値のあるレースだと思う。正直トレランというにはちょっと厳しいコースだが、大人の冒険と思えば、変化に富んだ楽しいコースだ。それもこれも、地元の熱意があればこそ開かれたものだ。
 トレランはあくまでも起爆剤。これを期に、市の補助事業である「トレッキングの里」としても有名になって、多くの人が訪れれば嬉しい。そんな気にさせる素敵な山里である。
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▲玉川の里を望む展望台。ロング・ショートともこの場所を通る。天気がよければ南アルプスも・・・

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▲展望台に至るちょっと手前の激登り。登ってみれば、意外に楽しいかも・・・

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2011/08/03

I am a student

 僕が出た爆問の直前に、研修医4人が登場する新番組をやっていた。患者の訴えをドラマ風に再現し、それをもとに彼らが病名を推理するという番組だ。最初彼らが解答した病名が実際の病名と全て違っていたことにも驚いたが、それだけなら、ただのクイズ番組と変わらない。興味深かったのは熟練の指導医が、少しづつヒントや考え方を示しながら、真の病名に近づいていくプロセスだ。患者の症状から候補をいくつかの考えられる病名を挙げるところまでは想像できる。その先、指導医は、「・・・、でも痛みはない。ということは?」とたたみかけていく。考えられる候補を挙げて、この症状があるはずだけどない、だから違うと、候補を消去していく背理法の原理だ。これは、ナヴィゲーターが曖昧な自然の中で駆使してくるテクニックに似ている。病気だって自然と同様、簡単に命名できない曖昧な世界だ。そこで意味がある情報を見つけ出していくには、考えられる候補間の比較から、要求される弁別情報の精度を設定する必要があるからなのだろう。考えようによっては医師への不信を高めることにもなりかねない番組、裏事情もあるだろうが、よくがんばった。
 ディープピープルも相変わらずがんばっている。昨日のテーマは指揮者。大御所、中堅、若手のホープの3人が参加する構成は変わらないが、さすがにいずれも世界を股にかけてあるくマエストロだけに、ディープさも半端じゃない。名前は忘れちゃったが、一番若い緊張しいの指揮者は、団員とけんかして、団員も観客も帰ってしまう夢を見るという。蛇足だが、彼がその番組に出ているということは、それでも彼は素晴らしい演奏を作り続けているからだ。そんな夢を見ようが、「私たち、あなたより遙かに名声のある指揮者と、遙かに多くの回数この曲をやってきました」と言われようが、前に進むからこそ、評価される。その一方で、大御所「炎のコバケン」は、自分の思いを正確に演奏に反映するため、懇願するようにオケに「何度も止めてごめんなさい。ここは・・・にしたいんです」と言う。そのコバケンも、演奏前は控え室で全裸になって、独自のリラックス体操をするという。2000人の前で評価される演奏をする緊張との闘いは狂気と紙一重なのだろう。
 スタイルの違いはあるが、思いは一つ。楽譜の背後にある作曲家が描いたであろう世界を再現すること。楽譜に書いていないことを読み取る、これも熟練したナヴィゲーターに似ている。
 NHKの知り合いプロデューサーに「ディープピープル出たい!」と言ったが、ごめんなさい、まだまだ青二才でした。もっと精進して、自分の世界を極めます。

以下うんちく。
(studentは「学生」と訳されるが、修行中の身という意味もある。統計学で有名なt分布はゴセットの発見だが、スチューデントのt分布と呼ばれることもある。これはゴセットがペンネームのスチューデントで発表したから、謙虚ですねと、大学院の授業で習ったことがある。2000年に僕が国際連盟の理事に選ばれた選挙の時、僕より遙かにキャリアもあって大国を背負うノルウェーのオイビン・ホルトが、「敗戦」の演説でI am a student」と言っていたことが、今でも耳に残っている)。

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2011/08/01

震災の記憶

通常でも新聞は1月くらいためてみるが、3.11以後、意識して2月くらいためてからみた。3.12~14の新聞は今もとってある。被災しなかった自分にとって、あの時のショックが今ではほとんど消えかけていることを、当時の新聞を見ると痛感させられる。

災害の記憶というテーマで研究を始めようと、数人の学生に予備インタビューをしてみたが、駿河湾沖地震の記憶さえ、自発的にはでて来ない学生はいるし、そこで何か教訓を得たり、行動を変えたことがあるかという質問に対して、肯定的な回答をする学生は皆無に近い。人間、相当痛い目に遭わない限り、防災行動を積極的にトルようにならないものだ。

 その記憶ですら、必ずしも汎用性があるものではない。チリ津波の記憶で逃げおおせた人もいれば、それでも逃げられなかった人、あるいは「あの時はここは大丈夫だったから」と被災した人もいる。力を入れた防災教育を行った釜石では小中学校での被害者は、その日通学していなかった人がほとんどだったが、防災教育にもかかわらず多くの被災者を出した街もある。また、壊滅的な打撃を受け、助かったのは保護者に連れ帰られた児童が中心だったという学校もある。これらの結果から、一般的な将来への指針を導き出すのはかなり難しい

 

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