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2011/01/22

 学校ではクラスの目標づくりが学級活動で行われる。「明るいクラス」にしよう「みんなで仲良く」といったあれである。学級活動の観点からみても、目標づくりは自主性や実践性がないという問題がある。加えて、目標設定の観点からは、目標に具体性も定量的な指標もないという問題がある。さらに悪いことに、現状を無視した目標が設定されたり、その後なんのフォローもないことも多い。何かを成し遂げるという点で、いい加減な「目標設定」が多くの学級で行われていることの弊害は大きいと思う。まっとうな神経を持った子どもなら、「目標を決めることは(現実とは無関係な)儀式なのだ」と思ってしまうだろう(自慢になってしまうが、私も小学校3年生の時、このような目標に疑問を抱き、より具体的かつ定量的な目標である(という言葉を意識できた訳ではないが)『走り幅跳びで2m60を越えたい』と書いた。)
 教職の授業で、目標設定の問題点を取り上げたら、さすがに賢い教育学部の学生だけに、上記のような問題はだいたい把握できていた。そこで一つの設定枠組みの例として図のようなものを提示し、それを元に、「自分たちの専攻(をクラスに見立てて、その問題点の把握と目標設定をしよう」という授業を行った。
 目標としてあるグループが出したのは「静大の顔になる」。具体性はないが、設定プロセスで補えるので、よい目標である(正確には「夢」である)。別のグループは「時間を守る」との目標を上げた。目標を達成できた時、どんなふうに感じるのか?という問いの答えに愕然ともさもありなんとも思った。「時間を守る」に対しては、社会人としても通用する(だったかな)だった。そうなのだ。「時間を守る」は目標ではなく、手段なのだ。 もっとがっかりしたのは、いい線いっていると思った「静大の顔になる」に対して、責任感・自覚が生まれるという指摘があったことだ。もちろん責任感や自覚はうれしい人もいるだろう。今度は逆にこれが手段になっているように思える。試しにこれらを本当に「うれしいと思えるか?」と問うと、手を上げた学生はわずかだった。目標を「わくわくするような嬉しいこと」とは捉えていないようだ。
 日本の子どもは夢がないと言われる。義務や手段と目標を混同する儀式的な学級活動を12年間も続けてきたことにもその一因はあるように思える。

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