after thirty years
子どもが大学に入った。30歳の時生まれた子供だから、僕が大学進学してから30年経ったことになる。その年の春、大学受験の約20日後、僕は初めて全日本選手権に挑戦した。場所は小田原だった。箱根外輪山の急峻な斜面の地図とコースは、前の年に欧州遠征した先輩たちが、彼の地で学んだオリエンテーリングのエッセンスを余すことなく表現したもので、当時それに太刀打ちできたのは優勝した山岸倫也一人だった。僕も全く歯が立たなかった。序盤で20分近いミスをし、何やってんだ?みたいな顔をして、山岸が追い抜いていった。それでも5位。
それから30年がたち、再び全日本は小田原にやってきた。練習しながら、今の生活で全日本に備えるのはもう限界だなと感じていた。そう思うと、最後かもしれない全日本がエリートデビュー戦と奇しくも同じ場所だったことが感慨深い。今の自分はその時よりは間違いなく数段早い。そして、もし5位になったとしたら、きっと嬉しく、自分自身のパフォーマンスを評価できることだろう。そう思うと、この30年間に日本のオリエンテーリングは随分と発展した。そんなことを考えながら、前の晩を過ごし、眠りについた。
成績が悪い時は、何も言っても言い訳か「たられば」になってしまう。この週の前半の疲労具合を考えれば、この日は不思議なほど身体がよく動いた。林の中が走りにくく、スピードが出せないことも幸いしたし、ヤブの中の微妙なアタックが要求されたことも自分にとっては有利に働いた。
朝から頭が疲れていることを自覚している身には、これだけのことをするには相当な集中力が要求された。それでもレースの調子は悪くなかった。途中のルートチョイスレッグで、散々考えて、きっとこれが正解に違いないと思い、実際そのレッグを走りその感を強くした時、このレースはきっといけると思った。
その後も集中して走った。いや、多分過度に集中していたのだ。ゴールした時点ではトップ。その直後に小泉に1分差を付けられた、さらに紺野がゴールして3位に後退したから、後からスタートするシード選手の数を考えれば6位入賞が現実的なところだろう。着替えて、しばらくしてから成績速報ボードを見に行ってみると、周囲に入賞確定を示す薔薇の花が付けられていたのに、自分と2位下の柳下にだけそれがなく、「失格」の赤い文字。コントロールは全部回った。そしてちゃんとラップも出ていたのにどうして?
すかさず本部に調査依頼をしにいくと、信彦が「お待ちしていました」という。こっちも向こうも自信満々。いったい調査依頼になんと書けばいいのだろうか?隣にいたコントローラの酒井さんが助け船を出してくれた。「マークトルートを通っていないんですよ」。そういえばデフにはマークトルートが合ったが、通った覚えがない。改めて見せてもらったデフには10番の後に間違いなくマークトルートが描かれている。きっちり後半の地図読みをした時、このレッグからは、方向を定めて脱出しなければと思った。そして、フラッグの前に給水。給水後にパンチを忘れないようにしなければとも思った。だが、マークトルートがあることには全く気づかなかった。誘導テープ1本すら見た記憶がない。全くの失態だった。失格になった本人はもちろん、運営者だっていい気分はしないだろう。なんという失態!
走っている時はもちろん苦しかった。逃げそうにもなった。それでも、「メダルを取るのだ。弱気になってはいけない」と思いつつ走ることができた。レース後半は、こんな快楽がもう20-30分で終わってしまうことが惜しいとさえ思った。そしてその結果が、トップ選手たちの集団に混ざってのタイム。これ以上望むものなど何もない。
来年もがんばろう!って気になってしまったじゃないか。
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