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2008/08/03

アジア選手権を終えて(3)

 運営を手伝ってくれたオーストラリアのマルコムが、リレー前々日のコントロール設置の時、「テープが見つからない」と言っていたコントロールがあった。その日の設置では、僕はAPOCミーティングに出席するため先に帰ってしまい、彼の話を直接聞くことができなかった。
 当日の朝、そのコントロールに行ってみると、コントロールは自分が思っているのとは別の場所についていた。アタック方向からのルートでは、地図からはとても読み取れない沢の上流を横切っていたので、彼は「2番目の沢」であるその場所にフラッグを設置したのだろう。もし、そのテープが僕が付けたものだという情報を彼に与えていたら、彼の行動も違っていたかもしれない。つまりは様々な不幸が重なり、地図は不正確な状態で当日の朝まで放置されていたのだ。もともとこの地図は韓国のメンバーが一度は作成したものの、不十分だとしてチェコとウクライナのマッパーによって一から作り直された。ところが、現実に比べてあまりに等高線が多い(高度計でも確認)ので、SEAの尾上さんが原図と照合しながら等高線を間引きして全て書き直していたものだった。おまけに等高線で表現すべき沢の多くがみぞで表現されており、地形の概要が掴みづらく、可能度の表現もロングやミドルに対して一貫性を欠いていた。たった1日半の調査でそれを完全に仕上げることなど、どだい無理な話だったのだ。
 もはや地図を直す時間はない。マルコムが置いた位置に残っていた黄色のテープを巻き、正しい位置にフラッグを設置しなおし、可能な善後策を考えた。その後、パンチ台はあるのにフラッグがないコントロールを見つけたが、そんなことはもはや些細なトラブルに過ぎなかった。蚊につきまとわれながら尾上氏に電話、フラッグをつけてもらう手配をした。
 問題のコントロールについては、正直に選手に情報を提供してしようと決めた。「59番コントロールの北方の地形表現には正確さを欠くところがある。正しい場所にいると思っているのに黄色いテープを発見したら、そこは実際のコントロールの北方である」という文を掲示する案を尾上さんとジュリーのパトリックに相談した。図を描いて、地図と実際の地形を説明すると、パトリックは「正しい場所にいると思っているのに」という文章は誤解を招く、そのイラストレーションも掲示してはどうかとアドバイスしてくれた。後から、チームに聞いてみたが、「よくそこまで出すな」と思ったという感想と、「あちこち地図が歪んでいて、そんなことはone of themだった」という評価を受けた。
 会場への帰り道、前から気になっていたが、忙しさにかまけてほったらかしになっていたコントロール手前の鉄条網にテープを巻き、渉外不足のため一昨日になって初めて使えないことが分かったスタート直後の農地内の道の立ち入り禁止を迂回する誘導路のしつらえをチェックした。こちらの方は、草もしっかり刈り取られており、完璧な出来だった。
 会場では、地図の仕分けにトラブっていた。印刷とスタートナンバーを入れたシーリングまでで昨日の作業は時間切れになっていた。スタート30分前だが、地図は10分前には準備できていなければならない。デモンストレーションの打ち合わせの時間もない。この時点でスタートを15分遅らせる決断をした。結局4レースのうち3レースでスタート時刻が遅れる結果となった。
 スタート直前は戦場だった。救いだったのは、最初のスタートであるエリートがMWE併せて15チームしかいなかったことだ。残った二つのスタートもぎりぎり、時間通り(15分遅れ)でスタートさせることができた。第一の修羅場は乗り切った。
 地図交換でも、トラブルは続出した。作っていたはずの予備地図はエリートしか見つからず、地図取り間違えは許されない状況だった。僕と尾上さんも含めた日本人4名と韓国の主要スタッフとボランティア4名という例外的な手厚い配置をして、取り間違えを絶対させないように配慮した。エントリーはされていたが、リレーチームの編成が出ていないチームが相当数あったので、それなりのバカントは作ってあったが、新たに編成されたチームの情報が来ていなかった。地図配布所のメンバーは、最小限の地図しか並べておかなかったので、地図が見つからずに2分間立ち往生させるチームも出てしまった。スタート時には小雨だった雨が、2走出走時には豪雨になった。選手はコンタクトが流れそうになったり、いちいち水を払わないと地図すら読めないほどの状態だった。雨ざらしの地図配布所はあまりに寒く、選手が来ない時間はスクワットをして過ごした。
 地図配布所の混乱が収束したので、フィニッシュに向かった。フィニッシュでアナウンスに配置されていたイさんは有能な女性で、慣れないアナウンスを適切にこなしていたが、経験がないので先行的アナウンスはできない。そのあたりを補いながら、しばらくフィニッシュのアナウンスを手伝った。フィニッシュでは、その間も、的場先生らしからぬミスで、一時全員が失格になったり、多国語でのクレームなど、大変な状態が続いたが、それも一段落した。運営全体が落ち着いてきたころ、雨もあがった。男子は2走時点での競り合いを制して中国が、女子はエース番場を欠いたもののベテラン宮本が安定して走り、これも小差を制した。
 表彰式に関しては、意外なことに予定通りの時刻に始まった。国際大会で日の丸があがり、君が代が流れる。世界選手権で表彰式を見るたびに、「いつかは・・・」と思い続けてきたことが、アジア選手権という小さな舞台ではあるが、現実のものとなった。選手にとってはもちろん、日本の一オリエンティアとして、想像していた以上に感動的な場面だった。
 眠くてバンケットどころじゃないだろうと思っていたが、帰りのバスで爆睡したら、だいぶ元気になった。参加国の代表に一言づつ挨拶させるという安直な趣向も、各国ノリノリで意外と面白かった。バンケットの合間に大会中に取られたビデオと写真が流された。こういうホスピタリティーはさすがで、IOFを代表して参加していた副会長のヒュー・カメロンも、しきりに「これまで参加したどのバンケットよりもよかった」と手放しの誉めようだった。また、IOFの理事を退任する僕や、新しいアジアの理事として選出された韓国のリー氏を「アジアの顔」として紹介してくれた。このアジア選手権によって地域として自立への第一歩をアジアが踏み出したことは、副会長としても、個人としても嬉しかったに違いない。
 バンケットの後は、この3年間の念願であったコリアン・バーベキューに若い選手たちを連れて出かけた。3年前、翻訳の仕事で出かけた時には初日の海鮮でおなかを壊し、2日間かゆばかりを食べていた。今回のイベント準備では、全くゆっくり食事をする余裕もなかった。一つの大きなイベントが終わった。そういう安堵感に包まれた。ちなみに帰国後体重を量ると1kg落ちていた。多くの日本人運営者が3kgほど落ちていたそうだ。運営者を募る時の歌い文句はこれだな、「大会ダイエット:あなたも1週間で確実に3kgやせられる!」

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▲バンケットで、国を越えた交歓の時を持つ参加者たち

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