« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008/08/31

打ち上げ

夏休み最後の土曜日、AsOCの打ち上げと称して大会の運営に携わった日本チーム7名が集まり打ち上げをした。場所は韓国料理屋。訪韓中は誰もが忙しく、一度もゆっくり韓国料理を食べる時間がなかった。今回の運営の打ち上げにふさわしい場所だ。

 大会最終日のバンケットでは皆疲れており、そのまま宿に帰ってしまったし、翌日は僕も早朝の飛行機で帰国したので、大会後、彼らと大会を振り返り、またそこから今後を見通す時間をもてなかったので、今回の打ち上げはそのよい機会となった。よく教育関係者がこういう打ち上げを「反省会」と称するが、本当の意味での「反省会」になった。

 果たして彼らは、この大会開催という経験を資産として生かすことができるだろうか、今後韓国はスポーツとしてのオリエンテーリングを発展させていくことができるだろうか、課題は次々に見つかる。私たちと彼らの関係は今回の運営で終わるものではない。私たち、そして日本のオリエンテーリング界が今回のことを通して、さらに隣国との関係を深めていくことができるのか。それは私たちに課された課題でもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/25

80年ぶりのメダル

トランスジャパンの生の迫力の前では、北京五輪も自分の中では霞んで見えた。その中で、インパクトを受けたのが男子400mリレーでの日本の銅メダルだった。戦前は跳躍種目で、戦後はマラソンで男女ともメダルを取ってきていたし、アテネでは室伏がハンマーで金メダルを取っていたから、実況時に聞いて、このメダルがアムステルダム五輪の人見絹江以来80年ぶりのトラック種目のメダルだということを初めて知った。
 陸上の短距離関係者から見れば、悲願のメダルであったに違いない。そのことは、レース後のインタビューからも伺い知ることができた。4人の選手の誰もが、「これまでの先輩たちの努力があればこそ」と口にした。確かに、ある時期、日本人は短距離には向かないと言われていた。その生理学的事実自体は今も変わらないだろう。しかし、ここ数年、短距離種目でも、予選通過やファイナリストが出始めていた。バトンパスのあるリレーでは、その技術も大きくレースを左右する。上位チームが次々パスミスで失格になる中、決勝に残ったのも、ラッキーというよりはむしろ実力である。
 向かないといわれた種目のメダルを80年ごしで獲得したその姿に、オリエンテーリングの未来が重なってみえた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/21

満員御礼

9月14日に本学で開く公開講座「安全登山のための読図とナヴィゲーション技術」は、締め切り1月弱にして、定員に達してしまった。受講料は2500円なので、好日山荘での講習などと比べて決してやすいわけではない。大学というネームバリューも意外と大きかったのかもしれない。自分の講習に人が集まるのはうれしいが、こういう機会が不足していることも物語っているのだろう。どんな受講生に会えるのか楽しみ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/18

8日間の非日常世界

 トランスジャパンアルプスレースの最終日となる今日(17日)も、仕事の合間を見て大浜海岸に出かけた。4年前、正人のゴールシーンを見るだけでもインパクトを受けた。今回はもっと身近でこのイベントを見て見たいと考え、11日から14日にかけて北アルプスの縦走を行なうことも計画した。11日には全選手に遭うことができた。もちろん辛そうではあったが、まだ二日目のため、選手は皆元気であった。ロードレースやトレランレースであればあり得ないだろうが、知り合いである選手はもちろん、初めて話しをする選手も、「トランスジャパンですね、がんばってください」と言うと、しばし話し込んでいく選手が多かった。長丁場のレースだから息抜きを求めているということもあっただろうし、自分たちがやっていることを理解してくれる人と話をしたいという欲求もあったからだろう。雨中であった岩瀬さん(このレースの呼びかけ人の一人)からは、厳しいレース中にも関わらず、ハーフタイツでいた僕に「脚を冷やさない方がいいですよ」と心配までしてもらった。
 室堂(立山)まで3泊の縦走をして、選手に対する畏敬の念は更に深まった。これまでは420kmとアルプスに関する知識からイメージしてレースのすごさを感じていたが、今回はそれを体感することができた。選手たちは私たちが3日間かけた上高地-一の越をたった1日で通過し、さらにその4倍もの距離を歩いていくのだ。
 選手たちの絆や、選手を取り巻く人々のサポートにも感銘を受けた。僕たち自身、同じTEAM阿闍梨の伊藤奈緒の応援だった。松本電鉄で新島々に入る時、車両の中でハートレートモニターを付けている人物がいた。出で立ちも普通の山ヤとは違う。ただ者ではないと思っていたら、上高地からも僕らとほぼ同じペースであった。並行した時に聞いてみると、やはり選手の応援だった。選手を見るため、応援するため山を歩いている数多くの人たち、帰省途中にゴールに寄る人たちがいることを直接・間接に見聞きした。
 ゴール後、一端家に戻って、他の選手がゴールするのを見たりサポートしたりする選手もいる。このレースは呼びかけ人である岩瀬さん自身が参加している。当然サポート態勢が組織的には考えられていない。レースの制限時間が近くなれば、途中でリタイアする選手もいる。山麓までは少なくとも自力で降りて来なければならないし、山麓からの公共交通もない。そんな選手を迎えるために、過酷なレースを終えたばかりの選手が再び集まってくるのだ。制限時間も近づいた17日の夕方、湯川・西岡の2選手がゴールした。ザックを置いて太平洋に飛び込む時、ザックが倒れてハイドロが砂まみれになりそうなのを、間瀬さんはさりげなく置き直して、ハイドロの口をザックの上に載せた。彼らはチームメートのように他の選手を気遣い、またレース後(あるいはおそらくリタイア後)の支援を惜しまない(レース中の支援は禁じられている)。TJARはレースであるとともに全員がゴールを目指すチーム競技でもあるのだ。
 今回、なにより印象深かったのは、高橋ご夫妻であった。ご夫妻は、2年前にこのレースの数少ない完走者であったが昨年の東京トレイルランニングレースで心不全で亡くなった高橋香選手のご両親である。ご夫妻は、スタート、市ノ瀬(南アルプスとりつき)、そしてゴールと、要所で選手のサポートをされていた。4年前、正人のゴールを見に行った時、ここがゴールに何もないことに唖然としたものだが、今回は素晴らしいゴール横断幕が設置されていた。また大浜公園には選手の通過タイムを示すボードが置かれた。いずれもご夫妻の手作りであった。あの横断幕の存在は、ゴールに到達した選手にとって、何よりの光景だったのではないだろうか。
 ゴール後の選手たちからはアスリートとして興味深い話し、面白い話しを聞かせてもらった。山を下りた後も、静岡市の井川から大浜海岸までは80kmほど、時間にして17時間かかる。その半分以上の行程である前半40kmには井川集落があるのみである。そのため夜に降りてきた2位の紺野選手は、自販機でなんとか給水できたもののエネルギー切れに苦労したという。「茶臼で、いなり寿司ならあると言われたんですが、重いので断ったんですよ。こんなことならもらっておけばよかった。」一方、4位の駒井選手はやはり夜に井川を通過したが、おりしもお盆で井川では祭りが行なわれていた。「焼き鳥もたべましたよ。」。間瀬さんに至っては、「安倍川に出る手前にね、おいしいパスタ屋さんがあったの。で食べちゃったの。もちろん外でね(選手は独特の異臭を放っている)。あ、おみやげも買ってきた」といって、小さなキャンディー?の袋をお子さんたちと、たまたまゴールを見に来ていた知り合いの子どもにあげていた。ちなみに、間瀬さんはこの区間最速ラップである。
 僕らの山行は自炊だったが、それでも食料を軽量化するために昼は山小屋で買った。軽量化が最優先の彼らはほぼ全ての通常の食料は山小屋頼りである。いったいいくら位持っていくのだろうと、食事の時利佳ちゃんと話題になった。須田選手に聞いてみたら、「45000円持ってきました。残っているのは5000円くらいですね」という答えが返ってきた。そのほとんどが食料だそうだ。太郎平小屋では3600円を使い(パン3個、ウイダーゼリー2個、野菜ジュース1缶、リポビタンD1本、ポテトチップ2個!確かに太郎平小屋は食品が充実していた)、菅ノ平の「すき屋」(みなさん利用されたようだ)では、うな牛特盛に温泉卵二つ、みそ汁、冷や奴、サラダを食べ、それでもご飯が足りずに山かけ鮪丼(並)を食べたそうだ。また菅ノ台のコンビニではアミノバイタル1デーパック7箱を含めて、4000円以上の買い物をしたそうだ。(この項、その後の須田さんのメールにより詳細に訂正。8/26)
 用具の工夫と限界も興味深い。間瀬さんのストックは旦那さんの手作りだったし、駒ケンのザックは、これでもかというくらいに余計なところが切り落としてあって、6日間の山行をしたとは思えないくらい軽かった。田中(陽)のカーボンストックは、片方の先のカバーが取れたため、少しづつ欠けて3cmくらい短くなっていた。正人は、靴ひもが足の甲に直接響くので、そこにプラスティック板を入れていたが、それが裏目に出て、その下の皮がべろべろにむけていた。紺野さんは市ノ瀬で靴を取り替えたが、ソールが減りやすいことで有名なそのTEVAはアウトソールがほとんどすり減っていた。そんな話しを聞いていると、あっという間に時が経つ。
 結局、この3日間で6回大浜海岸に来た。こんなすごいレースが自分の住む街を目指してやってくる。その事を誇らしく思い、そして静岡市民代表になったつもりで、ゴールに脚を運んだ。そこに留まった時間はのべ10時間にはなるだろう。時間を忘れ選手を待ち、そして選手の話を聞き、レースを楽しんだ。リタイアした伊藤奈緒とゴールで合流した後も、しばらく選手たちと話し続けた。残念ながら参加はできなかったが、岩瀬さんが「打ち上げどうですか」と誘ってくれたのが嬉しかった。
 自転車で帰宅する途中振り返ってみる。弓なりの海岸線、消波ブロック、そして背後には巨大風車が見えた。それは見慣れた大浜海岸の風景だった。8日間のTJARの観戦が終わった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/17

奈緒無事下山

昨日の夕方も、今朝も通勤途中に大浜によった。高橋ご夫妻は相変わらずいつ来るともしれない選手を待っておられた。あじゃりの伊藤なおも、畑薙通過時刻を見ると、うまくいけば今日の昼頃には・・・と思って10時ごろ出かけたが、伊藤なおの畑薙通過は星野さんの誤りだということがわかった。結局、12時の時点で、ただ一人行方がわからないのが伊藤なお。ということはまだ南アルプスの山中にいる。

 「脚のケガでもしてなければいいが・・・」と高橋さんが言うが、むしろ脚のケガくらいなら幸運だ。とにかく無事降りてきてほしい。

 12時50分ごろ、畑薙に降り、リタイアしたという連絡を受けた。残念だが、よく無事にここまでやってきた。飴本さん(いったんゴールして帰宅後、車で様子を見に来てくれていたようだ)が、富士見峠まであがっていたので、そのまま迎えにいってもらうことになった。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/16

トランスジャパン、続々畑薙へ

今日の仕事も終えて、TJARの様子をブログで見ると、大きな進展があった。今日(16日)の夕方、5人の選手がほとんど1時間くらいの間に畑薙ダムに降りているのだ。山の世界は終わり、これからは国道に沿って一つ大きな峠を越えて、安倍川水系に入り、川沿いに下ってくるだけだ。もちろん、このアスファルト道路もくせ者で、ここで脚をつぶしてなんとかゴールにたどりつくというパタンも多い。

 あじゃりの伊藤奈緒も、すでに畑薙にやってきた。ここまで来たら倒れでもしない限り完走できるだろう。この時刻だと井川の集落で補給できないのが辛いが、水分は補給できるはず。

 がんばれ!勇者たち。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トランスジャパン、続々ゴール

大学の帰り、再び大浜海岸に向かった。昼間のプールの喧噪はもうなくなり、公園の前に車を一時停車することができた。

 紺野選手はすでにゴールした後だったが、紺野選手とサポートの高橋ご夫妻、ヤマケイの柏倉さんがいた。紺野選手に靴(ノースフェイスのテバ)を見せてもらったが、そこはつるつるだった。しかも、市ノ瀬で代えたものだそうだ。最後の山小屋にあった食料がいなり寿司だったが、重いので断ったところ、井川(集落)に降りても朝早くて店が開いておらず、それから富士見峠を越えて安倍川流域に降りるまで食料が得られず辛かったという。

 今日(16日)朝も、駒井選手がゴール予定なので、大学に向かう途中、大浜に立ち寄った。既に高橋ご夫妻、駒井さんの家族などが待っていた。少し待っていると、駒井選手は、最後は走って、そして迎えに来ていた子どもを抱えながらゴールに向かった。井川に降りたのが昨晩。お祭りをやっていたので、焼き鳥を食べたという。また途中で拾ったネルのシャツが防寒に役立ったとか。

 ゴールの感動の瞬間にも、子どもの手をつなぐリスク意識の冷静さに敬服した。

Ts310476

▲お子さんとゴールする駒井選手

Ts310477

▲ゴールの感動的瞬間にも、子どもの手をひくことを忘れない冷静さ。そのバランスがこのレースには必要なのだろう。

Ts310481

▲駒井選手のザック。持ち上げて、「軽っ!」。もはや水も食料もないとはいえ、3kg強程度だろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/15

トランスジャパン、正人ゴール

昨日北アルプスの縦走から帰ってきた。大学に車をおきっぱなしだったので、今日はMTBで大学にやってきた。正人からの預かりものがついていたが、駒ヶ根以降の情報も更新されておらず、さすがに今日昼までのゴールはないだろうと、とりあえず荷物は家においたまま大学にきた。ところが、10時ちょっと前に竹内すーさんから電話。なんと、正人は静岡駅を通過したという。普通に走ったら15分。脚は壊れているから1時間くらいかかるかもとすーさんは言っていたが、とにかく急いで家に戻る。車の中で前回のことを思い出し、また自分が同じ状況ならなにがほしいだろうかを考え、途中のコンビニで氷、水、凍った水ボトル、コーラ、ポテトチップ、サラミ、あんパンを買い、最後にレジでフライドチキン3枚を見つけた買った。

 ゴールに駆けつけてみると、正人はもうゴールした直後だったが、とにかく預かった荷物とゴール後すぐに必要なものを届けるタイミングには間に合ったようだ。

 今年は、ヤマケイの柏倉さんがいた。そして故高橋香選手のご両親がサポートをしておられた。ゴールにあった印象的な横断幕はご両親の作だ。正人のすばらしいタイムにもinspiredされたが、高橋選手のご両親の気遣いにもじんときた。今回、同時期に上高地から室堂まで3泊かけて縦走し、あらためてTJARの選手たちのすごさが体感できた。

Simg_6112

Simg_6122

上:故高橋選手ご両親の作のゴールの横断幕

下:5日10時間32分という驚異的なタイムでゴールした正人を囲んで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/10

まだまだ若造

 五輪関連記事で、年齢の話題がコラムになっていた。男女とも最高齢は日本で、67歳と58歳。もっともこれは馬術なので、他の種目とは同一に見ることはできないだろう。イスラエルの男子マラソン選手アイレルは53歳。昨年の大阪の世界選手権でも19位になっている。また、自転車女子のフランスのロンゴは今年50歳で、グルノーブル大の教授だそうだ。アトランタでは金を取っているというから、38歳にして金メダルをとったことになる。米国競泳史上最年長のトーレスは41歳。結局出場はならなかったが、ミュンヘンで史上最高数の金メダルをとったマーク・スピッツは50歳の時、五輪出場を目指した。出場のためには彼の自己ベストが必要だった。
 ボートの男子オーストラリア代表のトムキンズは42歳の上に心臓疾患をかかえながら4つ目の金を目指すという。そんな中高年選手の活躍を見ると、自分などまだまだ若造に思える。ノルウェーの世界選手権の時、僕はたったの50歳か・・・。
 今日から、トランスジャパンが始まる。選手たちから、ゴールに着替えを持ってきてという依頼がちらほら。そんなささやかなことでもレースに参加している気分に浸れる。がんばれ!でも、最後の一線は踏みとどまれる程度の無理にしておけよ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/08

横山さんきたる

オリエンテーリングの行事などで世話になっている清水のスポーツショップが、トレランの普及をねらって、横山峰弘さんを呼んで講習会を催すことになった。机上、屋外両方で、屋外は、僕のホームコースである日本平のトレイルを利用する。東京では大人気のトレイルランも地方ではまだバブルの域にまでは達していない。どれくらい参加者があるのか楽しみ。

詳しい要項は、http://homepage2.nifty.com/MNOP/news/alajintrail.pdf

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/06

アジア選手権を終えて(4:もう一つのアウェー戦)

 韓国がアジア選手権/APOCに立候補したのは、前回香港大会の時だから2年半近く前のことになる。SEAが決まったり、具体的な動きが出てきたのはそれから1年半以上たった昨年の9月だった。スケジュールが押していること以上に、国際大会の経験のない彼らにその認識がないことの方が心配だった。この時期からコントローリングに何度も訪れた尾上さんや寺島君は、10ヶ月以上の間やきもきしていたことだろう。ようやく外国人のマッパーが投入されて、地図完成の見通しが立ったのは今年の春になってからだった。
 今回の準備をする過程で韓国の組織やオリエンティアとつきあっていると、26年前に自分たちが開いたAPOC(当時はPOCだった)を思い出す。あのころ、協会(委員会だったかな)の幹部は初の国際大会にカリカリしていたし、実際に大会を運営する現場との関係はぎくしゃくしていた。当時協会に度量と情報収集力があれば、名誉ある初の国際大会運営に喜んで身を投げ出す若者はいただろう。しかし、当時はそういう組織構造は全くできていなかった。今の韓国のオリエンテーリング界の状況もそれに似ている。それから10年後のAPOC92の時には、僕たちはどんなテレインでも国際標準で地図化する技術と自信を手に入れていたし、さらに10年間でどこに出してもひけを取らないだけの運営のノウハウと技術を築き上げた。20年後、そんな韓国の姿の礎として今回の大会が位置づけられるとしたら嬉しい。
 大会前、「地獄の日々」、と漠然と考えながら韓国に向かったが、どこかで「地獄」を垣間見てみたい誘惑にも駆られていた。2007年のウクライナでの世界選手権が終わった時、セクレタリーのジュリアから参加者全員に送られてきたメールにねぎらいの返信を出したら、「今でも、時々大会の時の夢を見るの。ゼッケンがないわ。地図はどこにいったの?驚いて飛び起きるの。でも、心のどこかで、みなさんの要望に応えようとして働いた戦場のような日々を懐かしむ気持ちもあるのよ」という返事が戻ってきた。世界選手権は世界一の選手を決める場であるが、運営者にとっても世界一の大会を提供するという重圧がある。その過酷な日々を乗り切ったからこそ味わえる充実感や達成感を、今度は言葉もオリエンテーリング文化も違うアウェー戦で味わってみたかった。
 地図に描かれていない「行間」を、熟練したエリートランナーは読み取ることができる。そんな研究をしている話しを大学院の同級生にしたら、メディア心理学を専門とする彼は、「映画にも行間を読むシーンがあるんですよ」といって、長渕剛が出演する映画だかCFを見せてくれた。長渕が演ずる男が荒野の道標の前で、しばし逡巡している。道標の一方は「Hell」と描かれており、もう一方は「Heaven」と書かれていた。彼はどちらに進むべきか迷っているようだった。画面は、その男が一本の道標を担いで歩き始めるアップとなる。道標には「Heaven」と書かれている。その男に対する軽い失望が頭をかすめた瞬間、画面は引いて、その男と道標が映し出される。道標の文字は読めない。しかし、彼は「残っている」道標の方に進んでいたのだ。
 今回、僕たち支援チームは、アウェー戦を引き分けに持ち込むのが精一杯だった。大きなミスやまして不成立はなかったが、それに近いトラブルはいくつもあった。韓国の運営チームとの絆は少しづつ生まれてきたことを実感できたが、それも完全なものではなかった。本当にこの大会は(無事あるいは自分たちが倒れる前に)終わるのだろうかと、大会前半は何度も思った。この引き分けに誇るものがあるとすれば、それでも最後までゲームを諦めなかったこと。そして「地獄の日々」を「天国」に変えようと常に考え続けたことだろう。リレーの前々日、あまりの仕事の多さにすでに破綻していたチャさんは、リレーのナンバービブの注文を忘れていた。「私、絶対憶えていられないと思うので、あした朝言ってください。」それなら参加者から言ってもらった方がいいだろう、公式掲示板にチャさんの顔写真を貼りだそう。「この顔にピンときたら、『リレーのビブは注文したか?』と聞いてください」と書いて張り出した。リレーのビブは前日の夜には無事届けられた。リレー表彰式の国旗・国歌プロジェクトもそんな遊び心の反映だった。
 約10年間、IOFの理事として、あるいは個々の国際大会の運営者として、時に過酷な日々を送り続けた。アジアの自立の第一歩を感じさせたバンケット、そしてこの10年の労をねぎらってくれたヒュー・カメロンのスピーチは、その過酷な日々の多くを幸福の日々に変えてくれた。また新たな立場で、ここに集う人々と関わっていけるのだと思うと、この3年間感じたことのないハイな気分になった。
Img_5686

▲左から筆者、韓国の安さん、香港のパトリックと、バンケットにて。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/03

アジア選手権を終えて(3)

 運営を手伝ってくれたオーストラリアのマルコムが、リレー前々日のコントロール設置の時、「テープが見つからない」と言っていたコントロールがあった。その日の設置では、僕はAPOCミーティングに出席するため先に帰ってしまい、彼の話を直接聞くことができなかった。
 当日の朝、そのコントロールに行ってみると、コントロールは自分が思っているのとは別の場所についていた。アタック方向からのルートでは、地図からはとても読み取れない沢の上流を横切っていたので、彼は「2番目の沢」であるその場所にフラッグを設置したのだろう。もし、そのテープが僕が付けたものだという情報を彼に与えていたら、彼の行動も違っていたかもしれない。つまりは様々な不幸が重なり、地図は不正確な状態で当日の朝まで放置されていたのだ。もともとこの地図は韓国のメンバーが一度は作成したものの、不十分だとしてチェコとウクライナのマッパーによって一から作り直された。ところが、現実に比べてあまりに等高線が多い(高度計でも確認)ので、SEAの尾上さんが原図と照合しながら等高線を間引きして全て書き直していたものだった。おまけに等高線で表現すべき沢の多くがみぞで表現されており、地形の概要が掴みづらく、可能度の表現もロングやミドルに対して一貫性を欠いていた。たった1日半の調査でそれを完全に仕上げることなど、どだい無理な話だったのだ。
 もはや地図を直す時間はない。マルコムが置いた位置に残っていた黄色のテープを巻き、正しい位置にフラッグを設置しなおし、可能な善後策を考えた。その後、パンチ台はあるのにフラッグがないコントロールを見つけたが、そんなことはもはや些細なトラブルに過ぎなかった。蚊につきまとわれながら尾上氏に電話、フラッグをつけてもらう手配をした。
 問題のコントロールについては、正直に選手に情報を提供してしようと決めた。「59番コントロールの北方の地形表現には正確さを欠くところがある。正しい場所にいると思っているのに黄色いテープを発見したら、そこは実際のコントロールの北方である」という文を掲示する案を尾上さんとジュリーのパトリックに相談した。図を描いて、地図と実際の地形を説明すると、パトリックは「正しい場所にいると思っているのに」という文章は誤解を招く、そのイラストレーションも掲示してはどうかとアドバイスしてくれた。後から、チームに聞いてみたが、「よくそこまで出すな」と思ったという感想と、「あちこち地図が歪んでいて、そんなことはone of themだった」という評価を受けた。
 会場への帰り道、前から気になっていたが、忙しさにかまけてほったらかしになっていたコントロール手前の鉄条網にテープを巻き、渉外不足のため一昨日になって初めて使えないことが分かったスタート直後の農地内の道の立ち入り禁止を迂回する誘導路のしつらえをチェックした。こちらの方は、草もしっかり刈り取られており、完璧な出来だった。
 会場では、地図の仕分けにトラブっていた。印刷とスタートナンバーを入れたシーリングまでで昨日の作業は時間切れになっていた。スタート30分前だが、地図は10分前には準備できていなければならない。デモンストレーションの打ち合わせの時間もない。この時点でスタートを15分遅らせる決断をした。結局4レースのうち3レースでスタート時刻が遅れる結果となった。
 スタート直前は戦場だった。救いだったのは、最初のスタートであるエリートがMWE併せて15チームしかいなかったことだ。残った二つのスタートもぎりぎり、時間通り(15分遅れ)でスタートさせることができた。第一の修羅場は乗り切った。
 地図交換でも、トラブルは続出した。作っていたはずの予備地図はエリートしか見つからず、地図取り間違えは許されない状況だった。僕と尾上さんも含めた日本人4名と韓国の主要スタッフとボランティア4名という例外的な手厚い配置をして、取り間違えを絶対させないように配慮した。エントリーはされていたが、リレーチームの編成が出ていないチームが相当数あったので、それなりのバカントは作ってあったが、新たに編成されたチームの情報が来ていなかった。地図配布所のメンバーは、最小限の地図しか並べておかなかったので、地図が見つからずに2分間立ち往生させるチームも出てしまった。スタート時には小雨だった雨が、2走出走時には豪雨になった。選手はコンタクトが流れそうになったり、いちいち水を払わないと地図すら読めないほどの状態だった。雨ざらしの地図配布所はあまりに寒く、選手が来ない時間はスクワットをして過ごした。
 地図配布所の混乱が収束したので、フィニッシュに向かった。フィニッシュでアナウンスに配置されていたイさんは有能な女性で、慣れないアナウンスを適切にこなしていたが、経験がないので先行的アナウンスはできない。そのあたりを補いながら、しばらくフィニッシュのアナウンスを手伝った。フィニッシュでは、その間も、的場先生らしからぬミスで、一時全員が失格になったり、多国語でのクレームなど、大変な状態が続いたが、それも一段落した。運営全体が落ち着いてきたころ、雨もあがった。男子は2走時点での競り合いを制して中国が、女子はエース番場を欠いたもののベテラン宮本が安定して走り、これも小差を制した。
 表彰式に関しては、意外なことに予定通りの時刻に始まった。国際大会で日の丸があがり、君が代が流れる。世界選手権で表彰式を見るたびに、「いつかは・・・」と思い続けてきたことが、アジア選手権という小さな舞台ではあるが、現実のものとなった。選手にとってはもちろん、日本の一オリエンティアとして、想像していた以上に感動的な場面だった。
 眠くてバンケットどころじゃないだろうと思っていたが、帰りのバスで爆睡したら、だいぶ元気になった。参加国の代表に一言づつ挨拶させるという安直な趣向も、各国ノリノリで意外と面白かった。バンケットの合間に大会中に取られたビデオと写真が流された。こういうホスピタリティーはさすがで、IOFを代表して参加していた副会長のヒュー・カメロンも、しきりに「これまで参加したどのバンケットよりもよかった」と手放しの誉めようだった。また、IOFの理事を退任する僕や、新しいアジアの理事として選出された韓国のリー氏を「アジアの顔」として紹介してくれた。このアジア選手権によって地域として自立への第一歩をアジアが踏み出したことは、副会長としても、個人としても嬉しかったに違いない。
 バンケットの後は、この3年間の念願であったコリアン・バーベキューに若い選手たちを連れて出かけた。3年前、翻訳の仕事で出かけた時には初日の海鮮でおなかを壊し、2日間かゆばかりを食べていた。今回のイベント準備では、全くゆっくり食事をする余裕もなかった。一つの大きなイベントが終わった。そういう安堵感に包まれた。ちなみに帰国後体重を量ると1kg落ちていた。多くの日本人運営者が3kgほど落ちていたそうだ。運営者を募る時の歌い文句はこれだな、「大会ダイエット:あなたも1週間で確実に3kgやせられる!」

Img_5688

▲バンケットで、国を越えた交歓の時を持つ参加者たち

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »