« At Chech | トップページ | チェコ便り(2) »

2008/07/14

チェコ便り(1)

 1991年、ソ連崩壊前のチェコに世界選手権でやってきて以来、17ぶりにチェコにやってきた。1980年、初めての遠征でおっかなびっくりやってきた時のイメージは、今なお強く頭に染みついている。ウィーンからの夜行列車は、鉄条網で両側を囲われた国境の緩衝地帯で停車する。そこで、パスポートとビザの確認が行なわれる。国境まではユーレイルが使えるが、その先は切符が必要である。なぜかコロナを持っていなかった僕は、車掌に「おまえ、ちょっと来い」みたいに車掌室に連れて行かれて、どうされるのかと思ったら、「ドルでもいいぜ」と来た。当時は外貨は銀行など限られた場所でしかコロナへの交換は許されていなかったが、貴重な外貨は公式レート以上の値段で取引できるので、銀行よりよいレートでコロナに交換してくれる闇換金が横行していた。車掌もこうやって闇ドルを稼いでいた訳だ。
 ひなびた風景、意外と(失礼か?)親切な人々など、国自体に悪い思い出はないが、とにかく旅行が大変だったというイメージが強く残っている。なんと言っても出国前に大使館でビザを取らなければならなかったしね。
 その時はチェコの友人に世話になりっぱなしだったのだが、後で訪れた時には英語の通じない中でプラハからスロバキア(当時は同一国内)の田舎町までバスと電車を乗り継いでいくのも、かなりの冒険気分だった。物価が安いのはありがたかったが、レストランにいっても、メニューが英語で書かれているわけでもなく、ウェイターが英語が話せるでもない。メニューの上から4つ頼んで、じゃんけんで4人の順番を決め、来た順に食べたりした。
 1991年に訪れた時には、さすがにレンタカーは使えたが、まだ旧態依然とした状態は残っていて、駅の改札は超行列だし、国境は気まぐれに閉鎖されて、国境越えの車が列をなしていたりした。トレーニングキャンプの目的地も、地名が分かっても、どの地図にも出ていない。後から来たチームメイトなどは、プラハとどこだかの幹線道路の途中の町の近くであることを突き止め、本当は止まらないはずの特急バスの運ちゃんに、「ここここ、絶対ここでおろしてね」と粘っておろしてもらって、そこから7kmの道のりを歩いてきた。それを発見した役員が、「おまえらのチームメイトが歩いていたぜ」といっているのを聞いて迎えにいった。アメリカの友人も到達方法が分からず、とにかく先へ先へと進んで、公共交通で行き着いた町でどうしたらいいか聞いたところ、たまたまそっちにいく人の車で連れてきてもらったとか、旅行の苦労は絶えなかった。
 それが21世紀になるとどうだ。40ユーロで泊まれるような安ホテルが日本からネットで簡単に取れる時代だ。空港ではパスポートの提示なしで入国してしまったのには唖然とした。もちろん税関の手荷物検査もない。
 当然のように、空港にはマクドナルドもあればスターバックスもある。朝ジョギングしていたら、芝生のきれいな野球場があったのにも驚いた。共産主義の時代だったら、アメリカ帝国主義の象徴として、決してありえなかったことだろう。1990年代半ばのTimeに「東欧:残されたなつかしのヨーロッパ」といった特集があった。あのころの素朴な風景は今も残っているのだろうか?

|

« At Chech | トップページ | チェコ便り(2) »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: チェコ便り(1):

« At Chech | トップページ | チェコ便り(2) »