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2008/07/31

アジア選手権を終えて(2)

 あと約200枚の地図印刷が残っている段階で、残っている地図用紙がやけに少ないのに気づいた。印刷用紙はたっぷりある。そう聞いていたので、昼間のコースの最終決定や印刷状態のテストでも、地図用紙を惜しげもなく使ったのだ。それにしても残っている地図用紙が100枚というのは少なすぎる。明日がリレーなのだ。今晩中に地図が印刷できなければアウトである。
 隣の資材部屋を漁ってみたが、地図用紙はなかった。KTO(韓国観光公社:韓国連盟の事務所がある)にあるのではないか、どこかに紛れているのではないか、様々な可能性を検討した。寺島氏が6月末に持ってきた1000枚は少なくとも残っているはずだが、万が一に備えて予備の印刷用紙を寺島氏がスーパーに買いに行くことにした。その間、印刷を担当していた僕と尾上さんは、まず各コース3枚ほどとってある予備地図の枚数を減らすことにした。9パターンあるMEではばかにならない数を減らせる。その後、資材部屋にA3の用紙やB4の用紙が残っているのが発見された。A3は半分に、B4からはA4が切り出せる。それで都合100枚以上が確保できた。「80日間世界一周」で、期限に間に合わせるためスピードを出しすぎて燃料がなくなってしまった蒸気船を動かし続けるため、最後の手段として主人公がその船を買い取って、甲板や舷の板まで全部燃やさせるシーンを思い出した。その時、地図作成の責任者である安さんが、車に積んであった資材の山から、300枚の地図の山を発見した。

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▲見つかった印刷用紙の束

 地図印刷作業の裏で、的場氏は淡々と成績処理の作業を続けていた。2日前のロングではスタートの打ち合わせが十分ではなかった。20分のはずがいつのまにか21分遅れでのスタートになっていた。翌日レスト日の夜、小山氏(young)はミドルの運営手順について、韓国の運営責任者の李さんに対して詰問調で、詳細な手順の確認を求めた。その成果もあって、ミドルのスタートは順調だった。ただ一つ不幸だったことは、エリートのスタートに配置されたスタートユニットの中に、ナンバーをテープで隠した一般ユニットが紛れ込んでいたのだ。ユニットを使った計時が初めての彼らだけに、それを間違えて使ったことを責めるのは酷だった。そのため、会場で成績が確定できなかったのだ。
 フィニッシュの時刻はパンチングフィニッシュなので分かっている。Eカードに記録されたフィニッシュと読み取りの間の時間および読み取りのコンピュータに残された読み取り時刻からフィニッシュ時刻は確実に分かる。唯一の問題は、読み取りが二つのPCで行なわれ、その内部時計が8秒ずれていたことだった。的場氏は、ログから問題のEカードがどちらで読み取られたかを丹念に拾い出し、正しいフィニッシュ時刻を確定させた。正しく行なわれていれば、スタートユニットが作動していなくてもスタート時刻は確定できている。こうして無事男子の成績が確定し、高橋の3冠が決まった。作業終了は24時を回っていた。氏が当日中に成績を確定できなかったのは初めてのことで「記録」だった。

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▲資材の山の中で仮眠をとる的場氏

 その作業をしながら、せっかくの正式な地域選手権なのだから、国旗の掲揚と国家の演奏をしたいよねという話が持ち上がった。的場氏はここでも活躍した。「今時ネットが使えるんで、普通持ってないんですけどね」といって、電子百科事典の国の項目から、国歌のmp3ファイルを取り出した。なぜか持っていた式典用のファンファーレまで加えて、後はマイクとアンプさえあれば、立派に表彰式が行えることになった。翌日は韓国の運営者もその気になって、ボランティアの女の子たちに、旗揚げの練習をさせて、なんとか選手権らしいた表彰式が行なえた。実際に表彰台に上がって君が代を聴いた渡辺円香は、「今まで、なんか違和感を持ってましたけど、五輪選手とかの気持ちが分かったような気がします」と感想を語った。また既に現役は退いていたが、今回チーム1でリレーのアンカーとして見事にリードを守った宮本知江子は、「私が死んだ時には、(当日メダルの代わりに渡された)クリスタルの楯を棺桶に一緒に入れてほしい」と語ったという。
 地図印刷は、ほぼ計算通りの3時1分に終わった。並行して行なっていたシーリングも4時前には終わった。昨晩同様1時間半は眠ることができる。韓国に来て以来、眠っているか食事をしている時間を除いたら一瞬たりとも無駄なことをせずに作業を続け、限界時刻ぴったりに作業を終える。仕事に美学を感じる瞬間である。

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第一回アジア選手権が終わって

6月末に訪韓した時には、これは本当にできるのだろうか?IOFの地域選手権の一翼を担う第一回アジア選手権にふさわしい大会になるのだろうか。そんな疑問に包まれて帰国した。この訪韓でリレーのコースを確定するはずだったのに、地図は1/2ほどしか調査・作図が終わっておらず、エリアの様子を把握するため、適当に15ほどのコントロールのテーピングができただけだった。4月からずっと、この週末が適切なコースを提供するためのデッドラインだと言い続けてきた結果だけにがっかりもした。

 数日後に完成した地図が送られてきた。確かによく調査はされていた。しかし表現に冠してはIOFルールの無視、縮尺の適当な設定、沢で表現すべき地形をみぞで表現しているなど、逸脱の嵐だった。実際に入ってみて、それなりに走れると思ったところも、全てライトグリーンで表現されていた。

 それ以降の週末は全て埋まっていた。幸いなことに、IOFの地図委員会からも、インクジェット印刷の承諾が出ていた。地図は最後の最後まで直すことができる。残るは大会のモデルの日とスプリントの日に調査し、その日の夜から翌日のレストデーに向けて地図を仕上げ、前日のミドルの裏で地図をプリンターで刷り上げるという選択しかなかった。

 チェコの世界選手権から帰って3日間、集中講義を含めた大学での仕事をこなして、韓国にやってきた。地獄の日々だろう、そう漠然と思ってやってきたがその通りになった。24日と25日半日は、地図調査に費やした。その二日間はほとんどの時間帯降雨があり、朝と夕方は豪雨に近かった。それでも、調査をキャンセルする時間的余裕はなかった。

 テープ巻きをしながら最低限直すはずの地図チェックはほとんど地図調査だった。雨の中、いっこうに進まないことにいらだちを憶える調査は神経に悪い。雨天の中での調査はいったい何年ぶりだろう。

 トラブルは次から次へと襲ってくる。あるはずのものがない。用意したものがいつのまにかどこかにいってしまう。意思疎通が十分でない運営陣。初めての国際大会だからといえばその通りだが、全てがストレスの元になりかねな状態だった。

 リレーの前々日は朝4時までかかって地図作図を終えた。リレー前日のミドルは会場にはいかず、YHに籠もって地図を書き続けた。夕方になってようやく全てのコース版が出来、印刷が始まった。印刷枚数は約300枚。1枚2分だから、10時間かかる計算になる。2台のプリンターを並行して動かすが、それでも、5時間はかかる。

 作業は少しづつでも進んでいったが、23時を過ぎるころ、恐ろしいことが発覚した。

(この項、続く)

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2008/07/29

アジア選手権もあと1レース

24日に韓国にやってきて、アジア選手権運営のアシスタントをしている。思いもよらない悪いことがいくらでも起こる波瀾万丈の日々である。詳しいことは今は書けないが、日本のアシスティングチーム全員がそれを楽しんでいるかのように振る舞っているのが救いだ。

 番場は3冠達成、高橋は2冠で、今日のミドルのレースの成績はまだ手に入っていない。日本チーム監督の山岸が、会場に僕がいないのを見て「村越はどこで何してるんだ」と的場に質問したら、彼は、「言えないところで、言えないことをしています」と絶妙の回答をしたそうだ。

 今日もユースに籠もって、カップラーメン食べながら秘密の仕事。この高揚感もあと2日。最後の晩くらい、焼き肉食べて、足つぼマッサージにでもいきたいものだ。

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2008/07/25

第一回アジア選手権の運営サポートで韓国にやってきた。修羅場は覚悟していたが、到着したその日から朝4時まで翌日の準備で眠れなかった。今日は、7時すぎには起きて、リレーテレインのチェックに。一日中雨の中を地図の最終チェック等々。雨の中の調査も久しぶり。

 今日はレジストレーションがあって、明日から本番が始まる。まずは五輪公園でのスプリント。

 選手権が終わるまでは書けないようなことがたくさん。終了後のレポートをお楽しみに。

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2008/07/21

1kg減

暑いなかで、チームと会議の二股をかけてすさんだ生活をしていたウクライナから帰ってきた時、体重が1kgも減った。それから冬を越したのに、体重が戻る気配はなかった。昨年の秋から、体調もだいぶよくなって、トレーニング量が増えたことも影響していたのだろう。

 今年は、昨年の轍は踏まないようにと、だいぶがんばって食事をとった。幸いなことにIOF総会の宿であるホテルはちゃんと食堂があったし、チェコ物価でそんなに高くない値段でそこそこ炭水化物をとることができた。いつもなら抜きそうな最後の晩の夕食もちゃんと食べた。

 それなのに・・・。家に帰り、夕食後計った体重は59kg。ここ28年間での変動はたかだか3kgの上下であるが、その中でも最低のレベルである。できることなら、誰かに脂肪を分けてほしい。

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チェコ便り総集編

 チェコ最後の晩は、プラハに泊った。11時30分発の飛行機に間に合う列車はオロモッツからもあるが、オムロッツに出るの手段がない。夜行列車は身体にきつい。せっかくだから28年ぶりにプラハの街を少しでも見てみたいという気持ちもあった。プラハ市街の様子も、公共交通の様子もだいぶ分かったので、今度は中央駅のそばに宿を取った。トラムもメトロも充実しているから、空港にいくのは簡単なはずだ。
 今度も、日本のサイトで予約した。さすがに旧市街は60ユーロ以下のホテルはなかったが、旧市街を少し離れると40ユーロくらいのホテルもいくつか見つかった。まったく、この国の物価システムは理解できないことの連続だった。食費は安い。毎日ホテルのレストランで食事をしたが、ビールを飲んでも1000円ちょっとで事足りた。空港から、市街地の真ん中にあるホテルまではタクシーで400コロナもした(1コロナ7円くらいか?)のに、プラハからオロモッツまでの250kmの鉄道は、たったの308コロナだ。食費は安いが本は高い。この国の学生は勉強するのに支障ないのだろうかと、職業柄考えてしまった。
 宿の近くの食堂でビールを飲んで、夕食を取った。チェコは元々ボヘミアとモラビアという二つの地域から構成されており、オムロッツがあるのはモラビアだ。ここボヘミアに戻ってきて、楽しみにしていたピルズナー・ウルケルを初めて飲み、いかにもチェコ料理らしい食事を注文した。今度チェコにやってくるのは、いったい何年後になるだろうか。
 初めてヨーロッパに来た28年前、次の年に日本代表として世界選手権に来ることは疑いもしなかった。けれども、その後ほぼ毎年のようにヨーロッパに来ることは、想像力の限界を超えていた。ましてや、自分がこれほど深くオリエンテーリングの歴史に関わり、伝説上の人物たちと同じように、その記録の中に残るとは。しかも、それはたかだかこの10年ばかりの出来事なのだ。だとすれば、これから先、どんなことでも起こりえるだろう。食堂からの帰り道、20年前の自分に戻ったような気分で宿まで歩いて帰った。チェコも、自分と世界との関係も随分と変わってしまったが、自分だけはちっとも変わっていないようだ。

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2008/07/18

チェコ便り(10)

IOF総会も終わり、Prestrovの街を後にした。今やチェコはOlomoucの駅ですらインタネットに接続可能とは・・・

 ミドルファイナルとIOF総会の様子をアップ

http://homepage2.nifty.com/navi-and-map/WOC2008.htm

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チェコ便り(9)

IOF総会が終了。

報告すべきことはいろいろあるが、とりあえず、トレイルOの小山太朗さんが、日本人として初めてのIOFのPins of honourを贈られたのが、特筆すべき事項。小山さんは、特にアジア地区でのトレイルOの普及に貢献したことが評価されたようだ。

 国際的な評価を得ることは、日本のオリエンテーリング界全体としても誇らしいことである。

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▲会長ヤコブセン氏からPins of honourを贈られる小山氏

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チェコ便り(8)

 2005年に世界選手権の準備でヨーロッパの大会の成績を見ていた時から、ミンナには注目していた。圧倒的に強かったシモーネを逆転して、北欧選手権リレーを制したり、個人でも卓越した力を発揮していたからだ。ノッている時のミンナは本当に強い。逆に言えば、集中力が彼女の問題だとは彼女自身もO-sportのインタビューで答えていた。
 昨年のロングに引き続いて、ミンナは今年のミドルを制した。しかも2分というミドルでは考えられないようなタイム差で。会場で流れたスタート時のミンナの動きにはしびれるほどだった。今日は速い!そう確信させるに十分な動きだった。
 僕は理事会メンバーの賭で、男子はノルベリに、女子はミンナに賭けた。ノルベリは6位に終わったが、ミンナは見事優勝。これまでの賭のトータルでも2位に浮上した。

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2008/07/17

チェコ便り(8)

うーん。何が足りないんだろう。ミドルの予選がちょっと前に終わったばかりだが、またしても予選通過はゼロだった。番場が1分少々と惜しいところにはいるが、通過するかしないかの違いは大きい。

 チェコにいる僕自身、ホテルから(IOFデリゲートには予選にいくバスが用意されていないのだ)インタネット観戦だが、たかだか30kmの近くでレースが行なわれていると思うと、心理的には臨場感が増す。そんな中では、なおさら「なぜ?」と考えずにはいられない。そして、もちろん現状から抜け出すにはどうしたらいいかについても。

 選手諸君はもちろん、それぞれに考えるところがあるだろう。では僕自身は、今のポジションで何ができるのだろう?自分が選手として遠征していたころ、それが帰りの飛行機でのいつもの宿題であった。今年も宿題はどっさりである。それと同時に、選手たち(あるいは強化委員会か?)に「夏休みの宿題はやってきましたか!?」を問う、「教師役」でもあらねばならない。

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チェコ便り(7)

 2013年のフィンランドの世界選手権招致のためにやってきたフィンランド人たちは強敵だった。90年代のエリートもわんさか出場し、VIPレースは「優勝すれば世界選手権の予選通過も間違いなし」くらいのハイレベルの争いになった。宿敵ミッコにはまたしてもやられてしまった。けれど、勝敗をパーソナルに語れる関係ができれば、そこからまた新しいモティベーションが生まれる。それは世界選手権レベルで走っていても、VIPレースレベルで走っていても同じことのように思える。だからこそ、マスターズは3000人を越える人々を集め続けているのではないだろうか。
 2013年の招致チームが主催したレセプションは、ミッコのスピーチはエンターテイメントだったが、それ以上に世界選手権を招致するブオカッティという場所は興味深かった。日本の複合、ジャンプチームもしばしば合宿をするスポーツセンターがあるロシア国境に近い街だが、「周囲には何もない」。あるのは豊かな自然、そして最高のスポーツファシリティー、居心地のよい宿泊施設である。クロカンスキーヤーには有名なスキートンネル、つまりは屋内スキー場がある。一年中クロスカントリースキーができるのだ。
 日本でも、国立のスポーツセンターが作られた。確かに最新の設備を誇るが、東京のど真ん中。便利で隔離された空間では、強くなることはできるかもしれないが、最後の瞬間に踏ん張れるタフさは身に付かないのではないだろうか。また、自然の中にもコーチや選手自身も予期しなかったようなインスピレーションを受ける瞬間がある。都市にはないリラックス感もある。そういう環境がモティベーションにもつながることもある。2013年にはぜひ行ってみたいが、その前に自分自身で訪れ、そのインスピレーションを感じてみたい。

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▲今年もフィンランドのミッコ(連盟事務局長)には1分の敗退。こうやって勝敗を語る仲になることも、モティベーションの一つとなる。

WOC2013のプレゼンテーションの様子は、http://homepage2.nifty.com/navi-and-map/WOC2008.htmにも。

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チェコ便り(6)

16日のプレセミナーの午後は、トレイルOの世界選手権が行なわれている会場のそばで、IOFの理事や総会参加者、メディアのためのVIPレースが行なわれた。総会の時に、わざわざレースの場が設定されるのが、オリエンテーリングらしい。レースは社交の場だが、連盟の事務局員に若い世代がデリゲートとして来ているので、意外と熾烈な争いになる。僕も98年のポルトガルのシントラで個人、2000年はチームで優勝したが、その後はなかなか勝てない。今年は、ノルウェーのホバート(90年代前半のノルウェーエリートでワールドカップでは優勝経験もある)が地図委員会の委員長として、99年の世界チャンピオンのビョルナーがノルウェーのデリゲートとしてきているので、マスターズのM35-40に匹敵する熾烈なレースだ。フィンランドの事務局長ミッコも侮れない。
 レース前のトレイルOの表彰式では、旧友のシャロン・クロフォード(USA)に久しぶりにあった。彼女は、39歳の時に世界選手権で39位になっているが、その後スキーOに出たりしていたが、最近は「歳をとったので」トレイルOを始めたのだそうだ。「あとはMTBだけだね」というと、「アメリカではMTBやっている人はみんなアドベンチャーレースにいっちゃうんだ」といっていた。

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▲シャロンと、10年ぶり?の遭遇

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2008/07/16

チェコ便り(5)

 18日に開かれるIOF総会のためのプレセミナーが行なわれた。プレセミナーは、総会で議題となる案件に対して、参加国が十分な情報と理解を得るために行なわれる。今回の議題で紛糾しそうなのが、オーストラリアから提案されるWOC開催の隔年化である。2004年以降、WOCが毎年開催になった。それは北欧などトップの諸国、あるいはトップを目指すアスリートからすれば、チャンスがそれだけ増えることを意味する。またメディアへの露出も増える。一方で、提案するオーストラリアのようにヨーロッパから離れた国にとっては、毎年の世界選手権に選手を派遣することは経済的にも厳しく、また選手を支える社会構造がないので、選手も疲弊する。同じことは日本にも当てはまる。実際、今回のチームでも、昨年の世界選手権には出場せずに、自分で「2年に一度」の世界選手権にしている選手もいる。
 世界全体のオリエンテーリングの発展を考えれば、毎年の世界選手権開催は引き返すことのできない方向だろう。しかし、オーストラリアのプレゼンテーションが示すように、それ2003年までは各種目に3人(フル枠)出場の国は20ヶ国だったのが、それ以後の平均では国数は大きく減少している。オーストラリアの提案は、回帰にしか見えないが、毎年開催によって、確実に格差が広がっている。この点はなんらかの対応が必要だろう。

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2008/07/15

チェコ便り(4)15日午後

 理事会のおおかたの議題は終わり、15日の午前中は委員会委員長との合同ミーティングが行なわれた。理事会そのものよりも、要求される集中度が低いので、無線LANにつないで予選の結果を見ている理事たちもいる。もちろん、僕もその一人だった。
 何が足りないのだろう? ロングの予選の結果を見ると、男子では予選通過タイムはトップの概ね10-15%。それに対して日本選手のタイムは、20,25,40%増しである。一方女子は概ね15-20%で、日本選手のタイムは20,42,50%増しである。女子の走力の現状はよく分からないが、今回の男子選手のスピードは、たとえば5000mなら、確実にトップ集団に対して10%程度には収まっているだろう。仮に彼らと同じナヴィゲーションスキルを持っていたら、十分に予選を通過できるスピードだと思う。もちろんナヴィゲーションスキルといっても様々な要素がある。今回のテレインでどのようなスキルが必要とされるという見通しがあったのか。実際それがレースではどうだったのか。今はまだそれを検討する時期ではないかもしれないが、選手諸君にはそういう具体的な分析をし、またそれを次世代につなげる努力を是非期待したい。 
 残念ながら、ロングでは予選通過者はゼロであった。残ったミドル、リレーで、どんな点を修正してレースに臨めばいいのか?残された時間でできることは限られているかもしれないが、それをしてこその世界選手権である。

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チェコ便り(3)

15日

一日中カウンシルミーティング。かなりぐったり。午後、予定より早めに終わったので、市街地を抜けてランニング。
 昨日のスプリントの成績とラップが出ていた。番場は初めてスプリントで予選を通過して32位。最終の一つ前でリ・ジに抜かれているのを見て、やっぱりスピードが足りないよなと思った。しかし、ラップを見るとイメージが少し変わった。13秒とか20秒のショートレッグでは、一桁台のラップを取っているのだ。それは裏を返せばスピードの無さの証明でもあるが、反面テクニカルなスピードでは世界と互角に勝負できる可能性を秘めているのだ。番場はラップを見て、その事に気づいているのだろうか?
 理事の面々はたいてい昼食、夕食も一緒に取る。僕がいなかった昨日は、スプリントの上位予想をしたらしいが、明日はロングの予選なので、上位予想ではなくて、何カ国が決勝に進出するかの賭をしようということになった。そんなことでみんな真剣になるのだから、日本の大学OBもカウンシルもオリエンテーリングに対する興味という点では全く変わらない。スプリントでは女子が23チーム、男子が20チームだったらしい。女子22チーム、男子21チームに賭けた。朝からロングの予選だが、こちらは会議が続く。どうなることやら。

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2008/07/14

チェコ便り(2)

 プラハから、オロムッツに移動した。郊外にあるホテルから中央駅まで、距離は近いがトラムからメトロ2本を乗り継いで向かう。驚いたことに、トラムは寸分の違いなく時間表通りに動いていた。絶対並んでいると思っていた鉄道の切符の窓口も、少しも待たずに簡単に切符が買えた。そんなことに驚いているのは、17年ぶりにやってきた僕くらいなのかもしれない。
 市街地の複雑な路線をゆっくりと抜けていくのがヨーロッパの鉄道らしい。中部ヨーロッパの鉄道で長距離移動をするのも6年ぶりで、若いころの遠征を思い出させる。今はこうしてワープロを打っているが、25年前の僕は、いったいヨーロッパの列車の長旅をどうやって過ごしていたのだろう。性格的にはちっとも変わらない僕が、25年前、ただ車窓をぼんやり眺めていたとは思えないのだが。
 昼すぎに着いたオムロッツの街は、若い旅行者であふれていた。ブリテンの小さな地図とトラムの路線図を長い間見比べて、イベントセンターにいくには、2番か7番のトラムに乗ればいいことが分かる。イベントセンターがある大学の寮は、トラムの終点からすぐに見つかった。建物はたくさんあったが、大きなフラッグが掲げてあるので、オフィスの場所もすぐ分かった。オフィスに向かって歩く途中に、食堂を見つけた。今日は夕方までここにいて、そのまま開会式にいくことになるだろうから、腹ごしらえをしておこう。
 そう思ってカフェテリアの列に並ぶが、チケットがいるという。食事をしていたルーマニアのフェイに、どうやってチケットを手に入れるかを聞くと、前日にイベントオフィスで買うことになっているらしい。昼飯は食いそびれか!そう思っていると、フェイと話しをしていたイギリスの女性オフィシャルが、「チケットいるの?余っているからあげるわ」といって、くしゃくしゃのチケットを差し出してくれた。
 オリエンテーリングの世界は、決して情に濃い世界ではない(ヨーロッパだからなおさらなのだが)が、自分が積極的に一歩を踏み出せば、必要とするものは誰かが差し出してくれる。これまでオリエンテーリングの世界で何度も経験してきたことだ。

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▲開会式で行進する日本チーム。

レースの模様は、http://homepage2.nifty.com/navi-and-map/WOC2008.htm

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チェコ便り(1)

 1991年、ソ連崩壊前のチェコに世界選手権でやってきて以来、17ぶりにチェコにやってきた。1980年、初めての遠征でおっかなびっくりやってきた時のイメージは、今なお強く頭に染みついている。ウィーンからの夜行列車は、鉄条網で両側を囲われた国境の緩衝地帯で停車する。そこで、パスポートとビザの確認が行なわれる。国境まではユーレイルが使えるが、その先は切符が必要である。なぜかコロナを持っていなかった僕は、車掌に「おまえ、ちょっと来い」みたいに車掌室に連れて行かれて、どうされるのかと思ったら、「ドルでもいいぜ」と来た。当時は外貨は銀行など限られた場所でしかコロナへの交換は許されていなかったが、貴重な外貨は公式レート以上の値段で取引できるので、銀行よりよいレートでコロナに交換してくれる闇換金が横行していた。車掌もこうやって闇ドルを稼いでいた訳だ。
 ひなびた風景、意外と(失礼か?)親切な人々など、国自体に悪い思い出はないが、とにかく旅行が大変だったというイメージが強く残っている。なんと言っても出国前に大使館でビザを取らなければならなかったしね。
 その時はチェコの友人に世話になりっぱなしだったのだが、後で訪れた時には英語の通じない中でプラハからスロバキア(当時は同一国内)の田舎町までバスと電車を乗り継いでいくのも、かなりの冒険気分だった。物価が安いのはありがたかったが、レストランにいっても、メニューが英語で書かれているわけでもなく、ウェイターが英語が話せるでもない。メニューの上から4つ頼んで、じゃんけんで4人の順番を決め、来た順に食べたりした。
 1991年に訪れた時には、さすがにレンタカーは使えたが、まだ旧態依然とした状態は残っていて、駅の改札は超行列だし、国境は気まぐれに閉鎖されて、国境越えの車が列をなしていたりした。トレーニングキャンプの目的地も、地名が分かっても、どの地図にも出ていない。後から来たチームメイトなどは、プラハとどこだかの幹線道路の途中の町の近くであることを突き止め、本当は止まらないはずの特急バスの運ちゃんに、「ここここ、絶対ここでおろしてね」と粘っておろしてもらって、そこから7kmの道のりを歩いてきた。それを発見した役員が、「おまえらのチームメイトが歩いていたぜ」といっているのを聞いて迎えにいった。アメリカの友人も到達方法が分からず、とにかく先へ先へと進んで、公共交通で行き着いた町でどうしたらいいか聞いたところ、たまたまそっちにいく人の車で連れてきてもらったとか、旅行の苦労は絶えなかった。
 それが21世紀になるとどうだ。40ユーロで泊まれるような安ホテルが日本からネットで簡単に取れる時代だ。空港ではパスポートの提示なしで入国してしまったのには唖然とした。もちろん税関の手荷物検査もない。
 当然のように、空港にはマクドナルドもあればスターバックスもある。朝ジョギングしていたら、芝生のきれいな野球場があったのにも驚いた。共産主義の時代だったら、アメリカ帝国主義の象徴として、決してありえなかったことだろう。1990年代半ばのTimeに「東欧:残されたなつかしのヨーロッパ」といった特集があった。あのころの素朴な風景は今も残っているのだろうか?

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2008/07/13

At Chech

After some hours of travel, I arrived at Praha.  It is 17 years after when I stayed in Chech in order to participate World Championships in Orienteering, when Eastern Europe was still existed.  After 17 years, many thing have changed.  When I immigrate in Chech at the airport, there was no passport control, which I amazed a lots.  There are a lot of change, which I report when I can use my own computer.

(from computer at event center of WOC 2008)

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2008/07/12

チェコへ

今やフィンエアーは、生協が扱う格安チケットに近い値段で正規航空券が取れる。全てウェッブから出来て、座席まで指定できてしまうのだ。おまけに名古屋からも飛べる。WOCのチェコへはフィンエアーで飛ぶことにした。

 セントレア空港は名鉄駅から空港までの距離も近い。おまけに成田のような雑踏がなくて、ちょっと北欧気分の空港だ。予定していた新幹線がなくて、空港到着が90分前となってしまったが、空港駅到着から20分後にはもうゲート近くにいることができた。

 新しい空港だけにビジネスコーナーも充実している。昨日なんとか完成させたアジア選手権の地図修正とテクニカル情報を無事送ることができた。ちょっとビジネスマン気分。

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2008/07/11

トランスジャパン

 2年に一度、富山の魚津から静岡の大浜海岸まで、日本を横断するレース、トランスジャパンレースが開催される。今年がその年で、8月10日の午前0時に魚津をスタートする。今年はTEAM阿闍梨のなおちゃんが出場するので、北アルプスに応援に行こうと思ったら、併走応援はおろかポイント応援も禁止になったのだそうだ。いっきにやる気が下がってしまった。
 なんでも、前回は節度のない応援がなされたとかで、不公平だという声があって全面禁止になったようだ。もともと自己責任の極限のようなレースで、レース中のたれ死んでも本人の責任みたいなストイックなレースだから、厳しい方向にルールが設定されていくのはやむを得ないし、それに他人がとやかく言うものではないのかもしれない。
 しかし、主催者や参加者はそうであっても、その周囲には彼らを支える人や応援する人、興味を持つ人がいることへの理解がもう少しあってもいいのではないかと思う。家族や仲間がこんな過酷なレースに挑んでいたら、誰だって応援したいと思うだろう。それが周囲へのインスピレーションを与えたり、若い人の夢を育てることだってある。ストイックなレースといったって、山小屋で食料等を買うのは自由だし、そもそも走っている山道は長い間の登山文化の結晶として、今ある姿にある。そういう文化の中で走っている以上、その文化を継承する周囲に対する配慮もほしい。実際には節度を持った応援は拒否するものではないらしいが・・・。
 さて、北アルプスのどこで、彼らに「遭遇」するのだろうか?

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2008/07/10

ロゲインの上皇

ロゲインニングの戦略的価値に気づいて、何度も運営はしているが、ロゲイニングに出るのは、2年ほど前の菅平に田島利佳とペアで出て以来。一人でのロゲイニングはもう5年ぶりくらいだろうか。

 元々決められた時間にどれだけのパフォーマンスをあげられるかというシチュエーションに僕は強いので、昔からスコアオリエンテーリングは、辛いことはわかっているが得意種目だった。この日久しぶりに出て、前日のMTBの練習などの疲れは気になったが、思ったより走れることを実感した。なにより、後半、刻一刻と減っていく時間と、自分が単位時間にどれくらい進めるかを微調整しながら一つ一つのコントロールについていく・いかないを判断するのはポイントオリエンテーリングにはない快感がある。

 「ここを15分前に通過すれば、最悪直帰で帰れる」。その点を16分前に通過して、さらに高得点をねらう。直帰か、82点を取るかの分岐では、7分40秒を残す。直帰なら確実に時間内に帰れる。82を取れば1.4kmなので、5分/kmならセーフ。82への防火帯の走行状態を見てチャレンジ。結果として8秒のオーバーで3位。結果論になるが、これがとれなくても3位。そんな緊迫感が楽しい。ロゲイニングの上皇を名乗ろうかしら。

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▲ロゲイニングの帝王、柳下を追いながらの緊張感あふれる展開

 詳しいレポートはhttp://homepage2.nifty.com/navi-and-map/running2.htm

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2008/07/07

コード・ブルー

 ドクターヘリに登場する医者を目指す4人の若者の挑戦と苦悩を描く「コード・ブルー」が始まった翌日、僕は道迷い遭難の講演のため全国遭難対策協議会に参加していた。午後の分科会の一つがヘリによる救助に関するもので、地元の防災航空隊が救助活動のビデオを見せてくれた。
 ヘリは、緊急を要する山岳遭難のダメージを最小限にする最後の砦だが、万能ではない。霧や雨の中で救助を諦めるシーンは山岳救助隊マンガ「岳」にもよく出てくるが、風が強くてもホバリングができないので、どんなに天気がよくても高度の高い尾根線での救助活動は命がけだ。東三河の山間部での遭難では、好天なのに風速30m近い風で遭難者のいる場所に近づけず、その300m下の尾根をやむなくピックアップポイントにしていた。この時の遭難者は気胸のため、ドクターヘリも救助に向かったが、性能的に劣るドクターヘリでは現場に近づけない。防災ヘリが遭難者をつり上げ、茶臼山の駐車場でドクターヘリにランデブーするも、強風でドクターヘリが飛べず、結局処置をしてもらって、防災ヘリで病院へ搬送といったコラボレーションのケースも紹介された。
 強風にも弱いが、無風にも弱い。一端着陸してしまうと、特に高山では無風で飛び上がることが難しい。乗鞍での救助の例(東海3県1市は相互救助を行なう)では、飛び上がれないので隊員を一人置き去りにして(この隊員はいつも置き去りにされる役なのだと、隊長が笑っていた)、それでもなかなか上がらない。隊長自らが降りようかと思ったときに追い風に乗ってようやく離陸するシーンが出てきた。
 アメリカの救助活動のマニュアルに、樹間に隠れた動かない遭難者はヘリからの発見率が0%(つまり確実に見つからない)というデータが出ていたが、実際にもそうらしい。そんな時、昼間なら煙を上げる以外では、可能な場合には木を揺するのが一番発見しやすいのだという。1mの樹間があれば、ホイストで隊員をおろして救助できるだけの訓練をしていると、隊長は言い切った。
 ビデオを見せてくれた隊長と副隊長が、短髪にきりっとした顔立ちで、いかにもフィジカルエリート然としている。TVドラマ「コード・ブルー」を越える世界がそこにはあった。

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2008/07/03

富士川アドベンチャーレース

アドベンチャーレースシリーズ戦の最終戦である富士川アドベンチャーレースに出場した。

 ウィークデーも雨が多かったが、週末も土曜夜から雨が降り続け、午後には大雨洪水警報が出されたというから、午前中のラフトも間一髪で実施できた訳だ。

 ラフトはもともと懸念の多かった種目だが、スタート順(位置)を決めるラフト・スプリントでいきなりペナルティーをくらって、最下位でのスタート。スタート順はともかく、最下位艇のみ1チーム1艇(他は皆2チームで1艇、つまり漕ぎ手の数が半分未満になる)という大きなハンディーをスタート時から背負った。

 それでもスタート時のポジション取りで2艇を抜き、川岸の崖の上にあるCPでは、崖上の細い渋滞を後目にその一段上の藪の中をショートカットして、いっきに8チーム抜き。丘にあがると、うちは強いな。

 MTBセクションでは、いきなり最初のコントロールの位置がおかしくて、右往左往。ゴールしたら宮内(コースディレクター)、お仕置きだな。MTBの前半の400mアップはカツオさんの牽引とまどかさんのがんばりのおかげでそんなに順位を下げなかったが、シングルトラックではいっきにトップチームとのタイム差を開けてしまった。ここらあたりが、アドベンチャーレース上位進出の大きな課題だろう。

 MTB区間の最後のCP、ラン区間のCPは、きっと宮内が「村越さん、こういう地形好きなんだよな」とにやにやしているのが思い浮かぶ、興味深い地形だった。ここは牽引・ナヴィでがんばり、7位をキープ。上位には手が届かなかったが、とにかく前回の課題だった完走を達成できた。

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