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2007年12月 2日 (日)

暗黙知の解剖を読んで

 福島真人(2001) 暗黙知の解剖:認知と社会のインターフェイスを読んだ。表題からも分かるように、身体技能を語る時に欠かせない暗黙知という概念についての精査とそれに基づく問題提起である。冒頭に「使い古された概念は暗黙知という迷宮の入り口を指し示す上で必要だ」とある。最後まで読むと、本当に迷宮の入り口を示し、その中がいかに迷宮になっているかを見せてくれるだけで終わっていることには驚いた。その迷宮のゴールまでの道順を発見するのは他ならぬ読者なのであろう。
 この本を読みながら、教育の世界では暗黙知はいったいどういう位置づけなのだろうかとまず考えてみた。これまで教育実践は大量生産的で効率的な作業とは無縁の場とも思われてきたが、その一方でTOSSや陰山メソッドに代表されるように、効率的で明示的な方法で教育実践を展開していこうとする動きも見られる。しかし実際の現場を観察してみると、あるいは自分が明示的な方法を使いこなすことを考えると、手順化には収まらない暗黙知が依然としてあるように思う。明示的な方法として意識化されるまでは、「暗黙知」であったかもしれない。しかし、それが言語化(あるいは手順化)された時、やはりそれにはすくいとられていない部分が残る。暗黙知とは常に、タマネギの皮むきのようなものなのかもしれない。法則化の理念は悪くないが、教育技術の根底にある暗黙知の存在を軽視していると言えるかもしれない。
 こうしてどこまでも残る暗黙な部分の学習や教授において、状況主義的学習観や反省的実践家の概念は重要な役割を果たすと見なされているが(前者は学習という視点で、後者は教授という視点で)、そのような概念の安易な学校教育実践への適用(実践的活用、あるいは研究の視点として)にも、本書は警鐘を鳴らしている。
 地図読みはどうだろう。つい最近まで、僕は尾根線・谷線を引くことは、ある点を尾根・谷と同定できれば、その延長の単純なスキルと考えてきたし、初級者がうまく尾根線を引けないことを不思議に思ってきた。しかし、初心者の誤解答を分析すると、実は自分が「暗黙知」、すなわち、等高線の曲率半径の最も小さい部分をとおり、その部分の等高線に垂直に線を引いて結んぶという知識を使っていることがあぶり出されてくる。そのことに気づいてしまうと、暗黙知はもはや「暗黙」ではなく、言語化してテキスト化することができる。ただ、依然としてそれはスキルなので、その言語情報を聞いただけではすぐに身に付かない(身に付く人もいる)のも事実だし、曲率半径の一番小さい部分を見つけること自体、暗黙知に支えられているのかもしれない。
 地図は明確な約束に基づく記号体系だから、上のように言語化/手続き化すればそれでスキルの全てが顕在化される場合もあるが、現在地確認やルート維持のように、混沌とした環境との相互作用を余儀なくされる時には、どこまでいっても暗黙で有り続ける、タマネギ構造があるのかもしれない。
 暗黙知の皮をきれいに一皮むけば、それは新しい指導法の確立として賞賛されるかもしれない。同時に、教育をマニュアル化したという批判を受けるかもしれない。福島が指摘するように、明確さと暗黙さのバランスの上に学ぶことの面白さも存在するのかもしれない。その意味では、地図とナヴィゲーションスキルの学習にはまだまだ暗黙知が多すぎる気がするぞ。

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