2012年2月 6日 (月)

釜石の奇跡と言われるが

「釜石の奇跡」という新聞報道には違和感を抱いてきた。ある防災の専門家も、「あれは奇跡ではなく必然だ」という。実際朝日新聞の記事によれば、学校管理下での児童/生徒の死亡は大川小学校を除くとほとんどない。数見氏の「子どもの命は守られたのか」(かもがわ出版)でも、欠席等の児童の死亡を含めても一般住民の1/8程度にすぎない。全体としてみれば、学校はよく児童・生徒を守ったといえるのだ。

さらに「あら探し」をすれば、釜石の実践も、片田さんが構想したことができなかったという意味では失敗事例なのではないかとさえ思う。理由は学校管理下になかった生徒の死亡だ。学校管理かでは誰一人亡くならなかったが、当日病気等の生徒5名が死亡・安否不明である。4人は欠席や早退、ひとりは避難後に家族と合流してから行方不明。この結果は、片田さんが目指したような「自分の命は自分で守る」が教育として徹底していなかったことの証とも言える。より正確にいうなら、その教育は「学校」という場でのみ有効であった。生徒は、「学校管理下だから学校で習ったように行動した」のかもしれない。片田さんは、本来このことを乗り越えたかったはずなのに。

 休んでいた子どもはどのように被害にあったのか。被害に遭った割合はどの程度なのか、その検証が片田実践を乗り越えて、学校にいようがいまいが「自分の命は自分で守る」子どもを育てるためには必要なのだ。

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2012年2月 1日 (水)

教育関係者必読の書:子どもの命はまもられたのか(数見隆生)

31:数見隆生 (2011) 子どもの命は守られたのか:東日本大震災と学校防災の教訓 かもがわ出版
 新聞は悲劇ばかりを大きく報道するが、東日本大震災では、学校管理下ので児童・生徒の死亡率は住民の死亡率を大きく下回る。この本を読めば、それが決して「釜石の奇跡」なのではなく、三陸沿岸部の必然であったことが分かる。「守られたか?」というタイトルは多くの場合修辞的なものだが、この事実は教育関係者が誇りに感じていい成果だ。一方、「大川の悲劇」も、大川だけの問題としてでなく、こういう広い文脈の中において、多くの場で学校が子どもを守れたのに、なぜという視点でとわなければならない。
 読み終わった翌日、大学院の授業で、静岡の防災教育や学校での災害後の対応についての研究発表を聞いた。脳天気さに愕然とした。「原則留め置き」の内容すら正確には教職員に行き渡っていないのだ。これでは同じ、いや三陸以上の惨事に遭遇してしまう。

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2012年1月19日 (木)

センター入試、ミスはなぜ起こった?

 センター入試の地歴と公民の問題冊子配布で7000人近い受験生に支障が生じたという。入試監督という末端業務に携わったものとして、またエラーの心理過程にも興味を持つ研究者として、ミスはどうして起こったのかを考えてみたい。

 根本的な原因は、1科目受験と2科目受験が混じっている複雑な制度に起因すると思われるが、単に複雑なだけであれば、明確に手順が示されれば済む。その点には説明会でも重大な落ち度があったとは思えない。もっとも重大な要因は、一見面倒な手順がなぜ実施されるかという「理由」についての説明が十分ではなかったこと。それによって監督者は、手順に関する首尾一貫した表象を形成することができず、その解消のために常識としての「暗黙の公平さ確保ルール」を適用したことにあるのではないかと、自分自身の知識状態を振り返ると思う。

 私自身、入試委員長の経験者として入試の実施方法については、常日頃関心を抱き、注意を払ってきたつもりだ。だが、説明会で聞いても、1科目受験と2科目受験の間に公平性が保たれるようには思えなかった。なにしろ、2科目受験生は1科目の間中、2科目目の問題を解くことができる。もし本来1科目で受験するものが2科目受験を選び、しかも本命科目を2科目目の時間帯内で回答したら、回答に60分以上の時間を使うことができるので、2科目目だけを受験する受験生に対して有利ではないか。

 説明会で質問したが、その時の回答は確か「そのような(2科目目を解いている)受験生がいた場合は記録してください」というものだった。しかし、受験生は複数の科目からその場で問題を見て回答科目を選ぶことができるのだから、50人を越える受験生に対して、ある受験生が1科目目は何を選択しているかを把握し、この不正行為をチェックすることは不可能に思えた。日頃厳密な試験実施を指示する入試センターの業務としてはあまりに杜撰に思えて、説明は納得できなかった。次の時間の学部内リスクニングテストの説明会の時に入試委員長に質問したが、「そうは言っているが、実際には1科目受験と2科目受験は全く別の試験だ」という回答が返ってきた。そうか、1科目受験者と2科目受験者は同列に比較されることがないからそれでいいのだ、とその時は納得した。

 それでもやはり釈然としない。運良く受験生であった息子に夕食時に聞いた。答えは明確だった。1時間目に受けた科目が1科目目、2時間目に受けた科目が2科目目として固定されている。これで納得できた。つまり1科目のみを評価する場合には必ず1時間目に受験した科目が採用される。これは厳密に60分しか使えない。2科目目にどれだけ時間を使おうが、それは1科目受験者と比較されることはなく、同条件の2科目受験者としか比較されないので、不公平さはない。同時に、なぜ間に10分とって1科目目の解答用紙を回収するかが納得できた。それによって1科目目は必ず60分という歯止めを掛けることができるからだ。

 当日直前のブリーフィングで、再度「当初配布するのは(2教科受験室の場合)解答用紙1枚と問題冊子2冊ですね。」と尋ね、「そうだ」という明確な答えを得た。そこで答えをもらわなかったら、それでも不安はぬぐえなかっただろう。

 問題配布を忘れた監督者(の少なくとも一部)は、どうやって2科目受験者の公平な問題解答時間を確保するかという点について疑問を持ちながらも、監督要領の指示や説明会で説明された手続きと「公平さの確保」という常識との間に首尾一貫する表象を形成することができなかったのではないか。何より、試験の大原則は公平さの確保である。そこに生じた一種のバグ(Brown & Burton, 1978)を解消しようとした結果、「解答用紙も1枚づつ配るのだから、問題冊子も当然1冊づつ配るべき」という試験の大原則に準拠した自前のルールに固執する結果になったのではないだろうか。科目の固定を知らなければ(そして記憶の限り、この点について手続きと関連付けた説明はなかった)、万が一このルールが正規なものとずれていたとしても、公民を2科目受験するもの以外には公平性は保たれる。そして、公民が二科目受験できるという大きな試験制度の改革についても、やはり手続きと関連付けた明確な説明はなかった(正確にはあったのかもしれないが、たぶん強調されていなかったので記憶には残らなかったのだろう。実際私自身もそうだった)。

 一見して(その背景が)理解できない手順をその通りに実施することがいかに難しいかという認知心理学の教科の問題解決では古くから指摘された現象の延長線上に、今回のミスの原因があるように思える。

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2011年6月30日 (木)

丸刈りにサングラス

久しぶりに五厘刈りにした。刈ってから初めて、評議員をしている近隣の小学校にいった。試しにサングラスもして、校内に入り、学生との待ち合わせの時間があるので、10分ほど校内をうろついた。直接僕を見たのは2名だったが。

 昨今、学校は安全対策ということで、問を占めろとか、さすまたを使った訓練などを行っている。しかし、訪問者用の名札をつけず、どうみてもあやしい丸刈りにサングラスの男が10分校内をぶらぶらしていても、誰もとがめないのだ。素性も聞かれることもなかった。正常化のバイアスと言えばそれまでだが、ではその正常化のバイアスの背後には何があるのだろう?めんどくさい、本当は関係者だったらばつが悪い、つまりはほとんど起こらない不審者の侵入とそれによる児童への被害と自分が被るコストを勘案すると、素性をただすには値しないということか?

 いったいそこにどのようなコストが意識されているのか、またコストを下げるかベネフィットの認知をあげるにはどうすればいいか?それを考えなければ、学校での事件も、地震による被害も決して減らない。

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2011年3月15日 (火)

リスクのシナリオ

原発の事故のニュースを見ていて思うのは、現状については比較的ちゃんと報道されているようなのだが、今後どうなるか、特にリスクがどう変化するかについての具体的な報道がかけているように思う。

 「スリーマイル島を上回る」というのもリスク提示の仕方だが、実際それがどの程度のもの、つまりはどの程度の範囲の人体あるいはエリアに、どの程度の期間の影響があるかといった内容が出ていないので、リスクやその恐ろしさが全くイメージできないのだ。

 それと同時に、こん後どのようなシナリオの可能性があるかについても識者も含めてほとんど解説がない。yahooだかのニュースにどこかに原子力工学の名誉教授が対処方法が分かったらこちらが教えてほしいくらいだ、という記事があったが、そもそも可能な範囲のシナリオすら分かっていないのではないだろうか?

 リスクマネージメントという視点ではちょっと考えられないぞ。とは言え、日常的な事故レベルでも、以外とリスク変化のシナリオについては人は無知、無自覚だったという自分のデータを思い出した。

っていうことで、他山の石にしよう。

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2011年2月26日 (土)

ビヨンド?リスク

 「ビヨンド・リスク」という世界のトップクライマー十数人に対するインタビュー集を読んだ。彼らの中には危険なフリー・ソロで大岩壁を登るクライマーも少なくない。その彼らの多くが口にするのが、「自分は臆病だ」「用心深い」という形容詞だ。題名と一般のイメージとは裏腹に、彼らは決してリスクを越えない。しばしば彼らはリスクや状況をコントロールしているという言葉も発している。これらは自然の中でリスクの多いナヴィゲーションをしているナヴィゲーターの心性とも似ていて興味深い。
 さらに興味深いのは、その一方で、彼らはクライミングの持つ未知の要素や危険が彼らを引きつけているとも言う。リスクには本来未知の要素から生まれる不確実性が含まれているはずであり、それは状況をコントロールしているとは概念的に相反する状態のはずである。主観的にそれがどのように折り合いがつけられているのだろうか。残念ながら、本書にその答えはない。その答えを探すことは、リスクに対する人間の考え方を理解するための重要な問いとなることだろう。

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2010年11月15日 (月)

安全教育のチャレンジ

 卒論生と共同で、小学校での危険認知の授業を行った。4-5人の班で校内を20分間周り、危ないと思う場所、なぜ危ないかを探しだし、クラスでまとめて、どこがなぜ危ないか、どうしたらいいかを考える授業だ。
 最初の動きが緩慢としていたので、危ない場所がしっかり発見できるかどうか、やや不安だったが、多い班で10個近くを見つけてきた。
 次にグループで話し合い、各班の「ワーストランキング」3位までを決める。本来順位のつくようなものではないが、本当に危ないのか、どのくらい危ないかといった話し合いの論点が出てくることを期待している。ランキングを決めるとなると、どうしても「多数決」をするグループが出てくる。そういうグループには「ねえねえ、本当に危ないの?」「どうして危ないの?」と問いかける。子どもどうしだから、些細なことにこだわったり、理由をちゃんと言えないので、うまく議論がかみ合わないことがある。たとえば、遊具がなぜ危ないかという時、「遊んでいるからだよ」という子がいる。他の子が「廊下だった遊ぶじゃないか」と反論すると、行き詰まってしまう。そこで「なんで遊んでいると危ないの?」と聞いてやると、「早く動こうとするから」など、重要な視点が出てくる。彼らは危険の要因はわかっているが、それを総合的にまとめ上げたり、相互に比較して、そこから新たな視点を生み出すことはできない。それは発達段階の限界なのかもしれないし、今の子どもたちが、遊びの中でそういう調整機能を活用してこなかったからかもしれない。
 なぜ危ないかをまとめたら、それに対する対策を考えてもらう。「注意する」といった抽象的な対策もでるが、かなり具体的・実行可能かつ役に立ちそうなものが出たことにはびっくりした。たとえば「角でぶつかる危険がある」というのに対して、「大回りをすればいい」。小学生ゆえに個人差はあるが、彼らはある程度危険の存在もなぜ危険かも、どうすればよいかもわかっている。逆に言えば、「・・・が危険ですね」「・・・しちゃいけないですね」というだけでは十分ではないということだ。大人でもわかっちゃいるがやめられない。そう考えると、これは安全教育における大きなチャレンジでもある。

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2010年11月11日 (木)

自分で考える

 野外活動の授業では、授業開始前にツールボックスミーティングを行う。活動場所の地図を見せたり簡単に口頭で説明をしたあと、1分ほど、どんなトラブルの可能性があるかを考えてもらう。とにかくリスクに意識を向けてもらおうというねらいだが、始めて行う活動も多いので、彼らの中からリスクの指摘が少ないのは、まあ仕方ないのかなとも思う。
 昨日は、リスクを主題にした授業を行った。僕が安全に関する委員をしているOBSの浜谷さんにやってもらったものを参考にしたものだ。最初は何も言わずに、活動場所まで移動。その間、わざとテニスコートの中を通過したり、林の中を通過する。テニスコートでは当然のようにラケットを使ってボールを打っている。通過の様子を見ていると、特に注意の度合いを高めるでもなく、漫然と広がったまま歩いている。集合後に尋ねると、テニスコートでのリスクを感じた学生は1/3程度。では、それについて何か対応しながら歩いたかと尋ねると、手を挙げた学生は1名のみだった。
 次にウォームアップとして、3人の中間に立つ人が身体をゆっくり傾け、両脇の人に交互に体重を預ける活動を行った。後ろ向きに倒れるのはけっこう怖い。「じゃあやって」といっていきなり始めようとする3人を制止して、「本当に大丈夫?」まわりのみんなも声を掛けてみて、と促すと、少しづつリスクの正体とそれへの対処法が明らかになってくる。挙げられたことに注意しながらやってみるが、実際にやると気づかなかったリスクがさらに挙げられる。「時計が当たる」とか「服がすべる」などは、確かにやってみないと気づけない点だろう。
 次はメインメニューのバックフライング。ここでも、ある程度のインストラクションをした後、「じゃあやってみようか」というと、いきなりやろうとするので、再び「本当に大丈夫?考えられるリスクへの対応はした?」と問いかけると、そこで始めてグループ内で声を掛け合い、確認が始まる。その時一番不満だったのは、今さっきでたばかりの「服がスベル」「時計が当たると痛い」に対して、対応行動をとった学生がいなかった点だ。
 自分で考える、っていうのは、こんなところからスタートするのかもしれない。

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2010年8月 4日 (水)

ごろごろ

養護教員の研修会の講師として、某学校にいった。テーマは危機管理。せっかく校内にいるんだから、遊具の点検しましょう、というノリになって、校庭にでた。危機管理という視点で校庭に出てみると、意外と気になるものがごろごろ出てくるものだ。

 大型ジャングルジムについた滑り台はかなり高くて怖い感じがするが、こういう「危なさ」が顕在しているものは、わりと実際の事故はないようだ。

グランドの中央に鉄柱のバスケットボールゴールがある。「これ、結構危ないじゃない?」という声が挙がったが、実際走っていてぶつかり、脳しんとうを起こした子どもがいたらしい。

 全てを排除するのも子どもの危険対処のスキルを高める上では問題だろう。このあたりのかねあいが難しいところ。最悪、どんなことが現実的に起こり得るかを丹念に見ていくしかないのだろう。

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2010年7月29日 (木)

養護教員は悩んでいる

 仕事柄、学校の養護教員から相談や研修の講師を依頼されることが多い。昨今、学校(というよりも社会全体か?)の安全意識が高まり、児童・生徒の安全確保は学校の火急の課題となっている。その一方で、発達段階途上の児童・生徒、体育や遠足のようなハザードに満ちた環境の中での活動など、学校の環境は安全という点でははなはだ心許ない環境でもある。児童のけがや疾病を最前線で見ている彼らは、時に安全意識の低い教員に対してのいらだちを感じることもあるそうだ。研修の相談に来た養護教員の代表から、そんな話しを伺った。
 昨年から今年にかけておつきあいした小笠地区の養護教員の研究会は、その意識を元に管理職から学校教員全体までを巻き込んで、事故やけがの対応だけでなく、その予防まで幅広く取り組んだ希有な例である。しかし、全体としては彼らの心配の種はなかなか解消しない。研修会に向けていただいた「質問」のいずれも答えることが難しいものばかりだ。知識がその一つの解決手段になることは間違いないが、それだけでも不十分だろう。リスクに対する原理的なスタンス(一種の哲学)の確立が教育界全体としても必要なのだろう。

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