2008年11月21日 (金)

学力低下は錯覚である(神永正博著)を読んで

 誰もがカルト的に信じている「学力低下」が錯覚でしかないことを、これでもかという資料と統計学者らしい分析で徹底的に論破した本である。この本の結論によれば学力低下は「そう見えるだけで、実態を表していない」。たとえば、「分数のできない大学生」の根拠として挙げられる分数計算の正答率が78%だという話も、実はそれは5問全問正答の学生が78%というだけで、しかも、そのうち一問はかなり複雑な括弧が入った計算であり、正答率が85%程度である。そのことを勘案すると、残り4問の分数計算の一問あたりの正答率は0.78/0.85の4乗根で、98%となる。普通に計算問題をやったら100題に2題くらい間違えることはあるのではないか、という具合である。まあ、PISAショックなどと言われながら、順位や点数みたら日本は決して悪くないと学生には話していたが、これだけのデータを示されると圧倒的な説得力がある。
 しかし淡々と学力問題に対して冷静な分析を試みる著者が、「本物の理工系人間は不滅である」という下りでは、途端に「巨人軍は永遠に不滅です!」みたいになってしまう点だ。「理工系人間はあまり変わらないのではないかと思っている」という論述の後には、天才的ともいうべき工学者の逸話が二人分出てくる。こんな特異なケースを持ち出してもちっとも実証になっていないではないか!実はそんな冷静さとカルティックな部分の共存がこの本の魅力なのではないかと思う。
(本書は東京農工大学の守先生のDOHCによって紹介されたものを読みました)。

神永正博 2008 「学力低下は錯覚である」森北出版

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2008年10月22日 (水)

避難訓練(紺屋の白袴)

 数日前、家族で外食をしている時、なんの弾みかニュージーランドのモーテルでの火災報知器誤作動の話になった。カミさんも趣味はオリエンテーリングで、上の子がまだ小さい時、僕が留守番をして、彼女は仲間とニュージーランドの国際大会に出かけた。泊まっていたモーテルで、香港のジュニアが火災報知器をいたずらして鳴らしてしまった。その時の反応がアジア系国民とヨーロッパ系国民できれいに別れたのだという。日本人と香港人は煙が出ていないか、火の元はどこかなど、情報が正しいのかどうかの確認動作を行ったという。それに対して、ヨーロッパ系国民は、即座に建物の外に避難したのだという。「火も見えないのにどうして?」と聞くと、「これはすぐに逃げろという合図なのだ」という答えだったらしい。
 他のアジア系諸国はわからないが、「それはきっと避難訓練のやり方が違うのではないだろうか」と僕は推測した。そんな話を地元新聞社の取材で紹介している時、タイミングよく大学でも避難訓練があった。「訓練です」という前置きは仕方ないとして、それから延々1分近い説明があり、その中で、「サイレンがなったらヘルメットをかぶって1分間机の下に隠れてください」という指示があった。これがだめなのだ。こういう知識はもちろん日頃から伝えておかなければならない。しかし、訓練の時は、実際と同じようにただ非常用サイレンがなり、それに対して、各自がその場で適切な行動を自分の判断でできるかどうかを試してみなければならない。そして、その時の行動が適切だったかどうか、あるいはなぜ適切にできなかったかといったことを振り返ることで、主体的な行動につながる知識の獲得になるのだと思う。
 でなければ、上記のように、いざという時、サイレンの解釈をはじめたり、あるいはサイレンに対してどうすべきかの指示を待つようになってしまうのではないだろうか。訓練はやるかやらないかよりも、どれだけ現実に近い形でやれるかが重要で、その点が学校の避難訓練できっちり行われていないだろうという僕の仮説は、n=1であるが、裏付けられてしまった。訓練の違いが実際の避難行動に与える影響を実証するのは容易ではないが、少なくとも実際にどのような訓練が行われているかを調査する価値はありそうである。

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2008年9月13日 (土)

嬉しくない講演、楽しみな講演

 仕事柄よく講演を頼まれる。たいていは直接の仕事つながり、あるいはコネで依頼が来る。だから、断りにくい。大学教員という社会的立場上もなるべく受けるようにしている。しかし、正直嬉しくない講演もあれば、楽しみな講演もある。初夏に頼まれた青少年育成は正直嬉しくなかった。あまり健全に生きているという自覚がないし、かといって、社会に蔓延している「最近の青少年は...」的言説には与していない。一方で、昨日引き受けた某地区の養護教員向けの研修は楽しみな講演の一つだった。今自分でも一番関心を持ち、また学校現場でも現代的課題の筆頭にあげられる危機管理の問題がテーマだからだ。聞き手と話し手の希望がマッチする講演は楽しみでもあり、やりがいもある。
 内容は、学校での事故を事例にしながら危機管理の諸相について話した後、学校でのケガの実態、児童・生徒の危険認知スキルを高める工夫、法律上の問題などに触れた。聞き手が教員だったという立場を割り引いても反応は悪くなかった。養護教員と(4名ほどいた幹事校の)校長という立場上、身につまされる事例も多かったからだろう。僕自身も随分準備はした。同地区の事故事例をわざわざ集計して、全国的な統計と比較してその特徴をあぶり出しもした。裁判の内容の分析も、詳細に行なった。しかし、いずれも校長や養護教員として知っておいてほしいことばかりだった。だから裏を返せば、この講演が受けたということは、知っておいてほしいことが、まだ充分には現場に浸透していない、周知されていないことの現われとも言えるだろう。
 講演の中で、「学校というのは恐ろしくトラブルシューティングの下手な組織だ」という話しをした。天窓が割れて子どもが墜落死すればさわがれる、プールの排水溝に子どもが吸い込まれ溺死すれば、マスコミがたたく。しかし、同種の事故は大事故に至らなくても何度も発生しているのだ。個々の事故よりも過去の事故が教訓とならず、何度も起きていることこそ問題なのだ。教員の中には、意識の高い人もいるようだ。事例の話しに「ああ、そうそう」という感じでうなずいている教員も数名は見られた。だが、全体としてはまだそういった事例がうまく共有されていない。そこらあたりが、事故減少への第一歩なのだと思う

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2008年8月25日 (月)

免許更新講習を終えて

 教員の免許を10年ごとの講習によって更新する制度が来年度からスタートする。今年はそのための試行講習を多くの大学が行なっている。制度の設計自体には賛否両論があるだろう。5日間の講習は2日間の必修と3日間の選択からなる。選択では、各自の興味・関心・必要性に応じて専門の教員が情報・演習を提供するので、これは教員にとっても興味あるものであり、意義もあろう。2日間の必修は「最新の教育事情」ということで教大協から膨大な項目の指針が出されている。あまりに膨大すぎて、それを二日間で提供しようと思えば、どうしても一方的な知識提供の部分が多くなる。演習やディスカッションで深めることができたのはごく一部だ。特別支援、生徒の居場所、危機管理など、10年や20年前に卒業した教員に対しては大学では教えられておらず、現場での経験や知識はあってもそれを理論的な背景から裏付ける時間とチャンスは残念ながら現職の教員でも少ないので、こういう話しを聞く機会自体は重要だろうと思う。
私の専門の教育心理学でも、10年前卒業の教員ですら、状況主義的学習観に出会うチャンスはなかったはずである。それを行動主義的・認知主義的学習観と対比しながら自分の実践を振り返るといった活動は、十分意義があると思う(実際、ディスカッションからもそのような声が聞かれた)。またリスクマネージメントについても、もちろん実践的には行なわれているが、それを体系的に考える視点は、試験結果を見る限りは役立ったようだ。
 一方で、ディスカッションのまとめや試験を行なうことで、教員の弱点もかいま見える。ディスカッションのテーマは理論等に準拠しながらも、具体的な対応・手だてを考えてくださいというものだが、どうしても体験談の井戸端会議になりがちである。理論によって提供された枠組みをうまく使って整理し、多様な視点から具体的提案を出すというところまではなかなか至らない。
 試験への回答を見ても、もちろん素晴らしい回答もあるが、問題の枠組みに沿った回答がなされていない回答は少なくない(たとえば現状を踏まえて、対応策をまとめるという課題でも、現状が十分記述されておらず、いきなり「今後こうしたい」で始まる)。学力観を比較する問題でも、両者を比較した上、それを自分の言葉でしっかりまとめられている答案はむしろ少数派である。PISA型の学力向上、というが、実は少なくない教員自体がPISA型の物の考え方、表現方法について十分なスキルを持っていないのが現状のようである。
 同じことは、講師として臨んだ自分自身にも言える。多様な観点の講義をしなければならない教育心理で、資料を読み上げるだけの項目が出ることは仕方ないとして、こんな感想が試験に記されていた。「この予備講習では私の居場所はないように思いました。講習内容も分からないことばかり、試験も書いていることすらこれでいいのか」(幼稚園教員)という声さえ聞かれた。これは、PISA型学力を育成するのに適していると言われる協同の学びの場を講師が設定することに失敗した典型的な例と言えるだろう。個人ワークやディスカッションの時間はとってある。しかし、個人ワークを通しての適切な対話、ディスカッションに対する適切な介入が十分にできていないので、学びが深まらなかったのだろう。
 受講生の評価は、アンケートをざっと見た感じでは2極化しているように思えた。「実践と関係ない理論が膨大」「学校で行なわなければならないことが増えてしまう印象」といったネガティブな意見と同時に、「新しい理論的枠組みが役立った」といった声も聞かれる。ここにも知の活用という点での2極化という現代教育が抱えている問題が凝縮されているように思える。
 こうした問題点に対応していくこと、それが蓄積され、また学校現場にフィードバックされることがあれば、それはまた更新講習の意義であるとも感じた。

 

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2008年4月21日 (月)

知のリハビリ

 9年前腓骨の骨折をした時、5週間ギプスをした。5週間後、脚の筋肉はなくなり赤ん坊の脚のようにぷよぷよになっていた。ギプスのうちから自転車で心肺機能は維持し、ギプスが短くなってからは、クライミングマシンにも乗った。ギプスが取れた日、喜んで歩き回ったら、学内のたった300mくらいの距離なのに、夜いてもたってもいられないくらいの痛みがギプスをしていた脚を包んだ。使わなかったものを使うためには念入りなリハビリが必要なのだ。
 気分障害が消えてから、元のとは言わないまでも8割ペースに戻したが、その後1月おきくらいにどかんと精神的疲労感から倒れそうな気分におそわれるのも、きっと鬱で萎縮した脳神経で、いきなりダッシュをしているからなのだろう。
 7月のAPOCで韓国にいく時期にちょうど認知関係の国際学会があったので、申し込んでみた。APOCの準備もかなり危機的状態のようだが、国際学会の方も似たようなものだった。日本の学会を通じて査読の依頼が来た。2pほどのレジメを10編ほど読んでくれという。それも締め切り3日前ほどだ。この週末が空いていたし、運営者が人手不足で困ることはよく分かっているので、引き受けた。2p程度のアブストラクトの査読と、それに簡単なコメントを付ける作業は、言わば知のリハビリのようなもので、適度な認知的負荷をかけてくれた。先週のフィンランドでの学校見学やIOFの会議も今週の大疲労感の原因にはなっていたが、その後少し「走れる」感じにはなった。査読をしながら、自分の研究に置き換えたらどんな展開が図れるかなんてことにも考えが広がった。「ギプスを着けていた」ときには考えられなかったことだ。身体でも頭でも適切なリハビリをしてこそ、うまく動くのだ。

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2008年2月23日 (土)

教育心理学の学生は3年生になると、近くの学校にアシスタントティーチャーででかける。その中で実践現場の問題をくみ取ったレポートを書くのが、1年間の大きなテーマとなる。

 今年の学生が見た子は、5年生だが、九九ができていなかったり、注意が散漫で、先生のいったのとは違う課題をやってしまい、間違いだと指摘されてやる気をなくす悪循環に陥っていたりといった子どもに対する支援についてのレポートが多かった。

 学力以前に問題がある子どもが増えているとも言えるし、そもそも学力の大きな部分は地道な作業によって獲得されるのだが、それができていない子どもが多いとも言える。発表を聞きながら、読図の学習でも、いい大人でさえ最初は尾根や谷を正確にたどれるなくて、練習を重ねることで、それがみについていくのと似ていると思った。結局スキルを身につけるというのはそういうことなのかもしれない。

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2007年12月 7日 (金)

防災に関する知識

 先週末は、認知心理学会の安全心理研究会にはじめて出席した。東北大学の仁平先生の講演だった。さすがにこのくらいの大先生になると、テーマとは関係ないカラスの話を30分くらいやっても、誰も文句を言わない。
 この日の講演では、防災教育で獲得させるべき知識として、1)個別知識、2)スキーマ、3)ナラティブ、4)スクリプトが指摘された。個別知識はいわば防災一口メモのような知識、スキーマとは災害そのものの一般的特性を踏まえた一般的な対処知識、ナラティブとはエピソード、スクリプトとは防災行動手順のようなものである。
 こういう知識があると実証されたものではなくて、いわば作業仮説のようなものだが、確かに私たちの持っている、あるいはコミュニケートされている防災知識をうまく網羅している。最終的にはスキーマに裏付けられたスクリプトの獲得が防災教育の目標であろうが、知識が行動に結びつくという点では、ナラティブが態度に影響する側面も無視できないであろう。
 火山のハザードマップの読み取り実験をした実感からは、火山についてはいずれの菱木も十分ではないように思われる。特に火山やそのハザードの特性といったスキーマ的な知識、それにどう対処すべきかというスクリプト的な知識も十分とは言えないし、ハザードマップそのものでも、肝心な「山を見る」といった情報は欠落している。
 知識とその構造の把握は認知心理学の重要な研究領域であるが、危険という点ではまだまだ未開拓なテーマが残っていそうだ。

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2007年12月 2日 (日)

暗黙知の解剖を読んで

 福島真人(2001) 暗黙知の解剖:認知と社会のインターフェイスを読んだ。表題からも分かるように、身体技能を語る時に欠かせない暗黙知という概念についての精査とそれに基づく問題提起である。冒頭に「使い古された概念は暗黙知という迷宮の入り口を指し示す上で必要だ」とある。最後まで読むと、本当に迷宮の入り口を示し、その中がいかに迷宮になっているかを見せてくれるだけで終わっていることには驚いた。その迷宮のゴールまでの道順を発見するのは他ならぬ読者なのであろう。
 この本を読みながら、教育の世界では暗黙知はいったいどういう位置づけなのだろうかとまず考えてみた。これまで教育実践は大量生産的で効率的な作業とは無縁の場とも思われてきたが、その一方でTOSSや陰山メソッドに代表されるように、効率的で明示的な方法で教育実践を展開していこうとする動きも見られる。しかし実際の現場を観察してみると、あるいは自分が明示的な方法を使いこなすことを考えると、手順化には収まらない暗黙知が依然としてあるように思う。明示的な方法として意識化されるまでは、「暗黙知」であったかもしれない。しかし、それが言語化(あるいは手順化)された時、やはりそれにはすくいとられていない部分が残る。暗黙知とは常に、タマネギの皮むきのようなものなのかもしれない。法則化の理念は悪くないが、教育技術の根底にある暗黙知の存在を軽視していると言えるかもしれない。
 こうしてどこまでも残る暗黙な部分の学習や教授において、状況主義的学習観や反省的実践家の概念は重要な役割を果たすと見なされているが(前者は学習という視点で、後者は教授という視点で)、そのような概念の安易な学校教育実践への適用(実践的活用、あるいは研究の視点として)にも、本書は警鐘を鳴らしている。
 地図読みはどうだろう。つい最近まで、僕は尾根線・谷線を引くことは、ある点を尾根・谷と同定できれば、その延長の単純なスキルと考えてきたし、初級者がうまく尾根線を引けないことを不思議に思ってきた。しかし、初心者の誤解答を分析すると、実は自分が「暗黙知」、すなわち、等高線の曲率半径の最も小さい部分をとおり、その部分の等高線に垂直に線を引いて結んぶという知識を使っていることがあぶり出されてくる。そのことに気づいてしまうと、暗黙知はもはや「暗黙」ではなく、言語化してテキスト化することができる。ただ、依然としてそれはスキルなので、その言語情報を聞いただけではすぐに身に付かない(身に付く人もいる)のも事実だし、曲率半径の一番小さい部分を見つけること自体、暗黙知に支えられているのかもしれない。
 地図は明確な約束に基づく記号体系だから、上のように言語化/手続き化すればそれでスキルの全てが顕在化される場合もあるが、現在地確認やルート維持のように、混沌とした環境との相互作用を余儀なくされる時には、どこまでいっても暗黙で有り続ける、タマネギ構造があるのかもしれない。
 暗黙知の皮をきれいに一皮むけば、それは新しい指導法の確立として賞賛されるかもしれない。同時に、教育をマニュアル化したという批判を受けるかもしれない。福島が指摘するように、明確さと暗黙さのバランスの上に学ぶことの面白さも存在するのかもしれない。その意味では、地図とナヴィゲーションスキルの学習にはまだまだ暗黙知が多すぎる気がするぞ。

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2007年11月27日 (火)

危険度を表現する言葉

今年も危険認知の調査を附属学校の児童・生徒と大学生でやろうと思って、KYTの図版を作成している。危険発見は図版をそのまま見せて、その中から危ないと思うものを拾ってもらうだけなので、図版ができればそれで完成だが、危険の評価については、あらかじめいくつかの危険(らしい)箇所をあげておいて、それがどれくらい危険かを評価してもらう。

 評価の方法は、ABCの3段階である。A:重大なケガにつながるので、すぐに注意してやめさせる、はいいとして、Bとして今すぐ注意する必要はないが、いずれ重大なけがにつながるので、適当な時期に注意すべきものにしたいと思っている。おそらくこの表現は学生には分かるだろう。だが、その趣旨を児童・生徒に分かるような表現を考えてみると、これが思い浮かばないのだ。

 このランクの危険はいわば「潜在的な危険」で、それがある時なんらかの理由で顕在化し、事故につながる。そして、発達段階途上にある児童・生徒は、このような危険に対して鈍感であることが交通場面での研究や私の野外活動場面での研究でも示されている。

 彼らに理解可能な表現が思いつかないということ自体、そこにラベリングをし、彼らの注意を喚起することの難しさと裏腹の関係なのかもしれない。

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2007年8月13日 (月)

「心理学と教育実践の間で」を読みながら

 教育心理学には、それが現場の実践の役に立っていないという問題意識が昔からあって、学会のシンポジウムでも何度も取り上げられて、最後には「不毛論争の不毛性」まで指摘される有様であったという。研究で得られた知が実践の役に立たない。こんなことは少なくとも工学ではあり得ないことだし、自然科学でも、研究で発見された学問上の理論は応用の場さえ見つかれば確実に実践を確固たるものにするはずである。だから、なぜ不毛かは、心理学が対象とする心の性質を含めて考えなければならない。
 この問題意識はまたの機会に話題にするとして、ここでは本書の論者の多くが触れている、実践から理論が立ち上がってくることはないのかという点について、自分自身の経験を踏まえて考えてみる。
 最近、読図ワークブックという本を上梓した。この本は、風景の写真を見て地図のどこで撮影されたかを当てるといった問題からなっているもので、それを段階的に学び、解けるようになることで山野で迷わない読図力が高まる、というのが歌い文句になっている。同様な問題は、かつて山と渓谷誌にも発表したことがあり、一定の評価を得たので、このワークブックもおそらく好評を博し、読図やナヴィゲーションスキルの向上に役立つ本とみなされるだろう。
 しかし、この本は、実践ではどうでもいいような細かい等高線の読解なども要求しているし、野山では絶対にやらない現在地の確定法も活用している。自分自身、野山で、この本の問題意識と同じような視点で風景を眺めているが、それも自分が常に読図のための教材を意識しながら山登りをしているからであって、本当にナヴィゲーションとしての必要に応じて、この本の問題が要求するような視点や考え方を持って地図や野山を見ているかは、自分自身でも疑問に思う。この本は、よく考えてみれば、かつての教育心理学と同じくらい理屈っぽく、実践的ではないという評価もされうる。
 その一方で、僕も含めて山野でのナヴィゲーションに長けた連中は、こうした問題を自由自在に解くことができる。研究的な視点から見れば推測にしか過ぎないが、こうした問題が解けるスキルや視点の取得と山野で間違いなく目的地にたどりつく技術には、確実に共通点があると思う。実際、自分が約20年間にわたり、優れたナヴィゲーターを観察し、そこから結晶化してきたものが同書の骨子にあることも間違いない。
 一方で、まだまだ自分で意識しきれていない、スキルの核心がいくらでもある。同書を書いている時にも、初級者が尾根線をきっちりたどることを阻害する要因や、それを克服するために自分自身が行なっていることについて、自分があまりに無意識であったことに気づいた。かなり実践的であろう同書でさえ、まだまだ実践との間に大きな乖離がある。
 最後に、読図スキルの本を書いて、読者に広く受け入れられた時、読者から聞いた感想で、目から鱗が落ちる思いをした言葉を紹介する。「この本は理論的に書かれているんで、分かりやすいんです」。

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